なかにし礼が北原ミレイの… 「石狩挽歌」歌碑(小樽・旧青山別邸)建立秘話

 昨年12月、作詞家・なかにし礼さんが亡くなった。数多くのヒット曲を世に送り出してきたなかにしさんは、少年時代の作品には、北海道を舞台にした曲も多くある。

 その1つ「石狩挽歌」は1975年、歌手の北原ミレイさんが自身8枚目のシングルとして発売した楽曲だ。

「海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると~」という歌い出しで始まるこの曲は、ニシン漁に大望を抱いたものの、それが泡と消えた男と、その男を待つ女の情念が込められた悲哀の歌で、この年の日本作詩大賞作品賞を受賞。後に八代亜紀や石川さゆりなどが歌い継ぎ、今日に至っている。

 石狩挽歌の舞台となったのは、かつてニシン漁が盛んだった小樽市周辺。なかにしさん自身も、旧小樽市立手宮西小学校に通うなど、少年時代を過ごした場所だ。

 その同市北部の祝津地区にある「旧青山別邸」には、石狩挽歌の歌碑が置かれている。

 旧青山別邸は1917(大正6)年から6年半の歳月をかけて建設されたもので、かつて親子二代にわたりニシン漁で巨万の富を築いた青山政吉が別荘として利用した。現在は国の登録有形文化財にも指定されている。つまるところ歌碑は“ニシン漁”つながりで建てられたもの、と思うが、実は、建立の理由はそれだけではない。

 現在、旧青山別邸のオーナーを務めている元札幌市議会議員の佐藤美智夫さんは、市議会議長も務めた市政の大物。市議時代から旧青山別邸の運営をしていたが、ある時偶然、石狩挽歌の関係者と知り合った。同曲の作曲者である浜圭介さんだ。

 浜さんといえば「舟唄」(八代亜紀)や「心凍らせて」(高山厳)などを作曲したヒットメーカー。浜さんを通じ佐藤さんはなかにしさんとの交流に発展、歌碑の建立へとつながっていったという。

左端が旧青山別邸オーナーの佐藤美智夫さん。左から3人目が浜圭介さんで以下順に、なかにし礼さん、北原ミレイさん(佐藤さん提供) ©財界さっぽろ

 財界さっぽろ2月号では、なかにしさんとは亡くなるまで家族ぐるみの付き合いだったという佐藤さんが明かす歌碑建立の経緯のほか、現在歌碑に刻まれている、

 北原ミレイ 創唱

 なかにし礼 作詞

 浜圭介   作曲

 という名前についての秘話も明かしている。その一部を紹介すると、実は建立された当初、北原さんの名前は無かった。これはなかにしさんの意向だったというのだ。

「歌手の北原ミレイさんが大好きでしたから、石狩挽歌を歌った北原さんの名前も歌碑にぜひ入れてほしいとお願いしました。ところが、なかにしさんがうんと言わなかったんです」(佐藤さん)

 記事内では「なかにし先生から一生の宝物をいただいた」と話す、北原さんの思いについても触れている。

 佐藤さんが明かす歌碑建立秘話を掲載した財界さっぽろ2月号は、道内書店・コンビニエンスストアのほか、以下の当社公式通販サイトなどからも購入可能だ。

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