閉店「TSUTAYA」経営のマンガ家・島本和彦が父から譲り受けた“社長の心得”

「当店はこの度、11月8日(日)をもって閉店させて頂くことになりました。25年間ご愛顧を賜り、ありがとうございました」

 10月1日、「TSUTAYA札幌インター店」(札幌市白石区)閉店の案内がWebサイト(参考リンク)に掲載されると、その“悲報”はSNSを介して瞬く間に広がった(参考リンク)。

閉店の案内が掲載された公式Webサイト ©財界さっぽろ

 同店は「炎の転校生」「アオイホノオ」などで知られる人気マンガ家、島本和彦氏が経営。「タッチ」のあだち充氏や「名探偵コナン」の青山剛昌氏、「うしおととら」の藤田和日郎氏ら、島本氏と交流のある大物マンガ家が来店し、壁に直筆で“落書き”をしていくなど、ファンからは“聖地”として知られる名物店だった(参考リンク)。

「島本和彦」はペンネームで、本名は手塚秀彦氏。1961年十勝管内池田町生まれ。札幌清田高校から大阪芸術大額映像計画学科に進学し、在学中の82年に「週刊少年サンデー」でマンガ家デビューを飾った。

 翌83年に初期のヒット作「炎の転校生」を発表。その後は実写映画化された「逆境ナイン」や「燃えよペン」「吼えろペン」が好評を博した。

 近年は、2007年に連載が始まった「アオイホノオ」(小学館「月刊少年サンデー」連載中)が大ヒット。同作品は島本氏の大学生活をモチーフにした自伝的作品で、マンガ家を目指す主人公・焔燃(ほのお・もゆる)の生き生きとした姿を描いている。

 14年にテレビドラマ化されたほか、15年に第60回小学館漫画賞(一般向け部門)と、第18回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞した。

 そうした活躍の一方、清掃業界大手「ダスキン」のフランチャイズ事業を手がける「アイビック」創業者で、現会長の父・手塚幸夫氏のもと、16年に副社長、19年には社長に就任。現在はマンガ家と社業の2足のわらじを履く、多忙な毎日を送っている。

 月刊財界さっぽろ2016年7月号特集「北海道の社長」では、当時アイビック副社長だった島本氏と、父の幸夫氏による対談を掲載した。

 対談では。十勝管内で暮らしていた幼少期の話から大学進学やマンガ家としてのデビュー、そして家業を継ぐことになった経緯を明らかに。さらには、経営者としての心得を幸夫氏から伝授される場面もあった。

 以下、対談の全文を公開する。なお、文中の肩書き、年月、敬称などはすべて、2016年6月の取材当時のもの。

   ◇    ◇

 手塚秀彦さんの父・幸夫さんは1933年生まれ。「ダスキン」(大阪府吹田市)のフランチャイズ企業「アイビック」(札幌市)社長を務める。68年の創業以来着実に成長を続け、道内に3つの支店を持つ。

 95年からは子会社「アカシヤ」を通じ、書籍販売・ビデオレンタル「TSUTAYA」のフランチャイズ事業も展開している。

   ◇    ◇

漫画のギャグは父から学んだ

――幼少のころは十勝管内で暮らしていた。

幸夫 池田町と豊頃町です。私の父が木材業を営んでいて、私は2代目でした。

秀彦 物心ついたころ、いつ崩れてもおかしくないような木材の山に飛び乗って遊んだのを覚えています。

幸夫 ただ父の代から経営は傾いていて、潰してしまったんです。それで家族には苦労をかけました。

――当時の幸夫さんについては。

秀彦 父は人を驚かせたり笑わせたり、なるほど、ということをする人。木材業を廃業した後、父は池田町でスーパーを経営していました。店にはお酒を置いていたんですが、売り場にたくさんの種類が並んでないと酒を買ってくれないものなのに、仕入れるお金がなかった。その代わりに、空き瓶に水を入れて並べておいたそうです。普通はしませんよね。私はギャグ漫画を書いていますが、その辺りは父から学びました。

――秀彦さんが小学生の時、一家で札幌へ移住。ダスキンのフランチャイズを始めました。

秀彦 一人っ子なんですが、両親は仕事に忙しくて遅くまで家に帰ってこない。ひたすら好きな絵を描いて待っているような子でした。

ある時「小学2年生」という本を1冊買ってもらったんです。何度も読み返すといい加減飽きるから、新しい本をねだりますよね。そうしたら父が「じゃあ何ページに何が書いてあるかいってみろ」と言う。さすがに覚えてないわけです。すると「読み込みが足りない」と(笑)。でもそれで、本を一生懸命何回も読むという、本に対しての姿勢が養われた気がします。

「島本和彦」こと手塚秀彦氏 ©財界さっぽろ

防衛大への推薦を蹴って大阪芸大へ

――漫画家になりたいと思ったのはいつですか。

秀彦 小さいころは、父が社長ですから「将来はダスキンを継ぐんだろうな」と心の半分くらいは思っていました。ただもう半分では、ずっと漫画を描いていたから描き続けていたいという気持ちもありました。

――大阪芸術大学に進学したのはなぜですか。

秀彦 それが、全然覚えていないんです。実は、高校時代に生徒会長を務めたということで、防衛大学から推薦が来ていた。なんでそっちに行かなかったのか。

幸夫 私は防衛大はなじみが無かったんで、勧めなかったんです。

秀彦 (笑)。たぶん親から「ちゃんとした大学へ行け」って言われてたら、絶対防衛大に行ってました。

――幸夫さんとしては、大阪芸大への進学は問題なかったのですか?

幸夫 兄が大阪にいたんです。兄の伝でダスキンを知ったこともあって、ちょっとした縁がありました。

――漫画「アオイホノオ」でも描かれていますが、秀彦さんは濃密な学生生活を過ごしていた。幸夫さんはそれをご存じでしたか?

幸夫 いや、知らなかったね。そういうのは母親に言ってたのかい?

秀彦 ちゃんと父にも話してましたよ。私、大学時代からよく話す性格に変わったんです。父に大阪での話をしたら「しゃべるようになったな」と言われて、親戚の家に連れて行かれて、同じ話をさせられました。

――大学に通いながら出版社へ漫画の持ち込みを続けて、大学3年時に「必殺の転校生」でデビューを果たしました。

秀彦 父とは「卒業までにデビューして金稼ぐようになる、それができなかったら戻る」という話をしました。そうしたら、2年生の時に賞をもらったんです。デビューは翌年でした。

幸夫 私はそのころ、ダスキンの専務理事として全国を回っていました。ある時、九州の書店で週刊少年サンデーを見たら、息子の作品が表紙に出ていた。やっぱり、うれしかったね。

――秀彦さんは、1995年に札幌へ漫画の制作拠点を移しました。

秀彦 長男が生まれたことと、父が「TSUTAYA」のフランチャイズ事業を始めて、手伝うことになったからです。長男の誕生年と1号店(千歳市)が、次男の誕生年と2号店(札幌市白石区)が同じです。書店は自分の仕事とも関連しているし、利用するのも好きでしたから。

幸夫 当時この業態は右肩上がりで、月の売り上げが9000万円を超えることもありました。

秀彦 漫画家として売れていない時期でしたから、肩身が狭かったです。自分の漫画が店に置かれてなくて、従業員に頼んでも置いてくれませんでした(笑)

秀彦氏(左)と父の幸夫氏 ©財界さっぽろ

民家を訪問してトイレ掃除する研修

――2014年10月から、秀彦さんは副社長としてアイビックに常駐することになりました。

秀彦 母親がその前月に亡くなったんです。父も高齢なので、心配になったというのが一番の理由です。

幸夫 そのころ、大阪芸大から、教授就任の話をもらったんだよね。

秀彦 そうです。でも父は、潰れそうな親の会社に戻ったからこそ今がある、という話をあちこちでしてます。私も一度は「何かを捨てて親の商売を手伝う」ということをしなきゃならないと思ったんです(笑)

幸夫 ダスキンの社員になった人は、必ず京都の「一燈園」というところで研修を受けるんです。

秀彦 私も15年ほど前から会社に支店長として名前があって、研修を受けています。その際、バケツとたわし1つ持たされて、近所の民家や事務所をいきなり訪問して、トイレ掃除をしてくることになっています。これが難しい。

幸夫 私は以前、3軒掃除してトップになりました。

秀彦 インターホンが鳴って誰かと思ったら、黒い作務衣を着た人がいて、いきなりトイレ掃除させてくれと言われても、普通断るでしょう。だから掃除して帰ってきた人はヒーロー。できなかったら、何をやってたんだと言われてしまう。支店長クラスになると、何が何でも掃除して帰らないといけないんです。私は2度研修に行って、2度とも1軒が精いっぱいでした。

――アイビックは昨年12月の1カ月間の売り上げが全国のダスキン支店中でトップになりました。

秀彦 次は年間売り上げ日本一の支店を目指します。ダスキンもTSUTAYAも時代にあった新たな試みをしていく必要があります。やるからには面白くて、やる気が出ていい会社だと思われたいし、給料もたくさん払いたいですから。企業として高いところまで伸ばしていきたいですね。

――2018年には創業50周年の節目を迎えます。

幸夫 そのタイミングで社長を継いでもらおうと考えてました。でもいっぺんに第一線を退くと、自分がボケちゃうかも(笑)

――アイビックには500人以上のスタッフがいますが、伝えたい言葉は。

秀彦 スタッフの方々には自分のやるべき仕事だけじゃなくて、その何倍もの大きさで仕事を考えないと、大きくなれませんと話しました。自分の精神的な限界は必ずある。そこに突入して限界を超えたら、新しい地平が見えてくる。それができたら奇跡的なことが起こるということを知ってもらいたいですね。

――幸夫さんから、秀彦さんへの注文は。

幸夫 今まで漫画家ひと筋だから、人間としての幅が少し狭いのでは、ということ。常々、いろいろな人の意見を聞いて勉強する期間だよ、と言っています。

秀彦 真摯に受け止めて、視野を広くしていきたいと思います……。

――今後は財界活動もされるのでは。

幸夫 そういうことは得意じゃないの?

秀彦 取引先との会合などであちこち行くことが増えました。でも“アウェー”という感じがします(笑)。率先してジンギスカン焼いたりビールを注いだりしていますが、今後はホームにしないといけませんね。

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