【さっぽろ〈マチナカ〉グラフィティー】第07回・オヨヨ通りからOYOYOへ(下)

 月刊財界さっぽろ2020年12月号より、新連載「さっぽろ〈マチナカ〉グラフィティー」が始まりました。

 筆者は札幌市の出版社「亜璃西社」社長でエッセイストの和田由美さん(写真)です。和田さんはこれまで「和田由美の札幌この味が好きッ!」といったグルメガイドブックや「さっぽろ狸小路グラフィティー」「ほっかいどう映画館グラフィティー」といった、新聞・雑誌等のエッセイをまとめた書籍を多数刊行されています。

 今回の連載では、札幌市内の「通り(ストリート)」や「区画」「商店街」「エリア」などの「マチナカ」(賑わいのある場所)を、毎月1カ所ピックアップ。その場所について、名前の由来や繁華街となっていく上での経緯、さらに現在に至るまでの変遷といった歴史と記憶を綴ります。

 今回は第7回「オヨヨ通りからOYOYOへ(下)」です。

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エルフィンランドと東映仲町(1980年7月29日撮影、笠康三郎氏提供) ©財界さっぽろ

 前回、南1条と南2条の仲通り(西4丁目~7丁目)が「オヨヨ通り」と呼ばれるようになったのは、ベストセラー『札幌青春街図』(1978年版)の巻頭ルポで私が命名したからであると告白した。この、通称 〝青春街図〟は、私にとっても忘れ難い一冊で、これが成功しなければ後に出版の「亜璃西社」は生まれていなかったろう。

 当時の私は、手塩にかけて育てたタウン情報誌を人に譲り、小さな編集工房「プロジェクトハウス亜璃西」を立ち上げたばかり。大阪の出版社に依頼されたこの本が、初の大仕事だった。それだけに、タウン情報誌時代に培った情報や人脈を、存分に生かして編集した。

 猥雑な東映仲町を擁するオヨヨ通りには、とりわけユニークな店が多く、新しい若者文化の拠点に成り得る可能性を孕んでいた。その命名者として、その名が今も語り継がれることは本当に嬉しい。そこで今回は、オヨヨ通り出身者や関連した人々のことを記したい。

 東映仲町の南側近くにあった「AGIT」(74~82年)は、学生時代にジャズ喫茶「モンク」(南4西4)でアルバイト経験を持つ清原久典さんが開店。会社員を続けながらサイドビジネスで営み、店の切り盛りは店長が担当。ジャズボーカルを静かに聴かせる大人の店だった。

 同じ5丁目に、清原さんが新たに出したのが、メタリックで真っ黒な外観の「CATCH・BOX」(80~87年)。まだ、カフェバーが札幌に進出する前で、そのお洒落さに音楽関係者やアパレル業界の女性たちは度肝を抜かれたものだ。

 AGITの真向かいには喫茶「唯我独尊」(72~79年)があり、初代の美人姉妹は2年で引退。後を継いだ對馬郁子さんによると、70年安保の残り火がまだ燃え盛る時代で、札幌南高校を中心に高校生が数多く通い詰め、制服撤廃運動などを展開していたという。しかし、2階のスナックから出た火事で全焼。閉店に際して對馬さんは、ホテルのコックだった常連の若者から、「独立するので名前を譲って欲しい」と頼まれ、快諾したそうだ。それが、後に富良野でカレーの人気店となった「唯我独尊」である。

 東映仲町の北側にあったのは、気鋭の若者たちが集う居酒屋「エルフィンランド」(74~87年、後に南3西6長栄ビルへ移転)。現在、シアターキノの代表である中島洋さんが、友人と元スナックを改築して開店。廃校となった小学校のイスや手作りの電灯などを活用し、素朴な造りで人気を博した。

 ボトルキープすれば、チャージ100円で何時間でも楽しめた。陽水が作曲して石川セリが歌うアンニュイな「八月の濡れた砂」がBGMに流れ、それを聴きながら幾度、酔っぱらったことか。また、2階では実験映画などを自主上映し、それが「ピンク映画の会」へと発展。やがて「北海道キネ旬友の会」「ビーチフラッシュ」など7団体による「さっぽろ映画祭82」の開催へと繋がっていく。ある時、2階の壁がベニヤ板でリニューアルされた。それを見て、口の悪い私が「ベニヤ板のカフェバー」と名づけると、洋さんは意外に本気で怒っていたっけ。それにしても、移転先の長栄ビルで〝日本一小さい劇場〟と銘打って産声を上げた「シアターキノ」が、来年30周年を迎えるとは…感慨深い。

 東映仲町を出てオヨヨ通り6丁目へ進むと、左手すぐに音楽喫茶「アイスドアー」(75~77年)があった。札幌のジャズバンド「ザ・しかし」のボーカリストとして活躍した別所徹一さんの店だ。いつもドアは開けっ放しだったが、店名と違って少しも涼しく無かった。
 その別所さんは現在、狸小路7丁目の木造2階建てで「一徹」を営む。昼はラーメン店だが、夜になると人気TV番組「居酒屋放浪記」でお馴染みの吉田類さんが絶賛する居酒屋へと変身する。ユニークなのは、その奥にもコの字型カウンター11席のジンギスカン店「アルコ」があること。この店では一貫してマトンを使い、味の良さには定評がある。

 また6丁目には、レンガ造り倉庫と札幌軟石の石造り倉庫が並ぶ隙間に、喫茶「VIDERO」(75~85年)があった。石壁をそのまま生かした内装と路面電車の座席のように横一列に並ぶイス、どこからか聴こえるBGMなど、そのすべてが斬新。近くの4丁目プラザの社員や東京から来た映画監督、雑誌ライターなど種々雑多な人たちがこの店を愛した。

 このほか、前述の東映仲町では、今やエムズカンパニー代表である、通称まろさんこと斉藤正広さんが出した喫茶「ぜんまい仕掛け」(77~80年)、オヨヨ通り6丁目ではピザを出す「ルパン」(開閉店年不明)、7丁目ではカントリー&ブルーグラスの「27CENT」(72年~不明)などが記憶に残る。

 とまあ、ことほど左様にユニークな店が多かったオヨヨ通りだが、その主たる5丁目から7丁目まで歩くと約300㍍。そう、グリコ一粒の距離だった!