半﨑美子が語ったコロナ禍で欠けたピース
歌手・半﨑美子さんは札幌から上京し、17年の長い下積みを経て2017年にメジャーデビュー。全国各地のショッピングモールで活動し、脚光を浴びて「ショッピングモールの歌姫」と称される。デビュー5周年の4月、記念シングルをリリースした。
ショッピングモールで歌うことは…
――メジャーデビューから5年。その内の2年がコロナ禍です。
半﨑 8カ月間ぐらい、コンサートを開けない期間がありました。デビューしてから3年間走り続けてきましたから、その8カ月間はいったん立ち止まって原点を振り返るような時間でした。
私は、エンターテインメントというよりも生活に根ざした楽曲を届けることに、自分なりに使命感を持って活動をしています。
上京し、パン屋さんで住み込みバイトをしながら活動していた最初の頃は自分の歌を聴いてほしい、誰かに必要とされたいと思うばかりで自分の歌を必要としている人はいませんでした。
でも今はコンサートが開けない中でも、たくさんのお手紙やメッセージをいただき、自分の歌を待ってくれている人がいる、自分の歌を励みにしてくれている人がいる、と感じられます。
なによりも感謝の気持ち、そして自分自身も救われるような気持ちになりました。同時にコンサートを再開できるようになったら、これをやろう、あれをやろうと考える原動力になりました。
――コンサートは再開できましたが、ショッピングモールでのリサイタルは。
半﨑 コンサートは定員を半分以下にして開けるようになり、6月には北海道ツアーを行います。ですが、ショッピングモールの活動は残念ながら再開できていません。
歯がゆい思いというか……ショッピングモールでの活動はある意味、自分の生きがいの場だと改めて感じていて、なにか自分の中のピースが欠けているような感じすらしています。ショッピングモールでのサイン会ではいつも来場者一人ひとりと対話をして、その対話から私自身がたくさん力をもらっていました。
――サイン会では一人ひとりとけっこう長い時間、話をされていますよね。
半﨑 ショッピングモールは人が自由に行き交うオープンなスペースです。クローズではない場の対話だからこそ大事なのでは、と思っています。
サイン会では涙を流しながら思いを吐露する方もいらっしゃいます。そうした光景を列に並んでいる方々も見て、連帯感のようなものが生まれるのです。みんな何かしら悩みや心の痛みを抱えて生きていることを感じ、その重荷を分かち合うような連帯感です。
コロナ禍でさまざまな方々が大変な思いをしています。人と会うことが制限され、直接の対話がなかなか難しい中、思いをどう分かち合っていけばいいのだろうかと考えています。
サイン会で握手から伝わってくる温度感
――コロナ禍が長引いています。
半﨑 ショッピングモールで出会った方々が今、どうしているのかな、とすごく気になっています。
実は、コロナの感染拡大が広がって1年目ぐらいは、ショッピングモールでの活動の再開に向けて燃えていました。だけどコロナ禍が2年目に入った辺りから、もしかしたら簡単には再開できないかもしれない、と思い始め、代わりにどのような形で対話ができるかと考え始めました。
――半﨑さんにとって、ショッピングモールでの活動に代わる対話を考えるコロナ禍でもあったんですね。
半﨑 この間、お手紙やホームページへのメッセージをいただいたり、SNS上での会話もあるけれども、サイン会で握手をし、目を合わせて来場者と触れ合う、あの温度感。それは何にも変えられない対話です。たとえ言葉を交わさなくても、お互いに伝わってくるものがありました。
――握手だけでも伝わってくるものを感じる時はあります。日常で一番使うところが手で、暮らしと手はつながっています。
半﨑 そう、そうなんです。ごつごつした手だったり、つやつやの手だったり、いろんな表情が手にはある。サイン会でたまに「がさがさの手でごめんね」と言われる時がありますが、まったく気になりませんし、むしろその人の暮らしの証しだと思っています。手だけでなく、匂いや雰囲気から、物語がふわりと伝わってくる瞬間も何度もありました。
――4月6日リリースの5周年記念のニューシングル「蜉蝣のうた」についてうかがいます。森山直太朗さんの書き下ろしです。経緯は。
半﨑 5周年を機に新たな試みをしてみたいと思いました。これまで自分で作詞作曲した作品をずっとリリースしてきましたが、1人の表現者として新たなエッセンスを取り入れ、自分自身を試してみようと。
直太朗さんとは以前から親交がありましたが、お仕事をお願いするのは初めて。尊敬するアーティストの直太朗さんに書いていただけたら新境地が開けるかもしれない、という期待もありました。
――お願いする時点でテーマは決めていたのですか。
半﨑 いえ、直太朗さんに委ねる形でお願いしました。直太朗さんは、私のこれまでの楽曲を聴いてくださり、いろいろと話を重ねる中で「蜉蝣のうた」を仕上げていただきました。
私の声には特徴があるとおっしゃっていて、声にインスピレーションを得てメロディーを作られ、その後、歌詞をつけたそうです。
――森山さんから作品をいただいた時の印象は。
半﨑 デモテープが届いたのは、たまたま私の誕生日の昨年12月13日。初めて聴いた時はどこか懐かしさ、ノスタルジーを感じさせる旋律に直太朗さんの歌声が乗っていて、心が震えました。メロディーと歌声に心が強く引き寄せられような感じです。それから、歌詞にじっくりと引き込まれていきました。
デモ楽曲の時点である意味、完成されているような気もしたので、果たして自分が歌えるのだろうか、とも思いました。そこから徐々に、自分なりにどのように歌っていくかを考えていきました。
森山直太朗が付けた新曲のタイトル
――タイトル「蜉蝣のうた」ですが、「カゲロウ」は難しい漢字なんですね。私はたぶん書けません。
半﨑 ハッハッハッ、私も自分の歌としていただいてなければ書けなかったでしょうね。
――タイトルは誰が。
半﨑 デモ楽曲の時点で直太朗さんがつけてくださりました。私のこれまでの楽曲に触れていただく中で、命や過ぎ去っていく日々、大切な人との別れといったイメージを感じ取られたのかもしれません。カゲロウは成虫になってからの命がとても短い生き物ですから、はかない命とリンクしていると思っています。
――リリース前の3月6日、特別に「ハンザキラジオ」(HBCラジオ毎週日曜午前11時〜)で先行解禁すると聞きました。(取材日・3月2日)
半﨑 そうなんです。
――「ハンザキラジオ」は何年目に。
半﨑 もうすぐ4年です。コロナ禍で移動の自粛を求められている今は、東京の自宅で収録をしています。以前は月に1、2回、札幌のスタジオで収録しており、毎月必ず故郷・北海道に戻る機会にもなっていて、いつも楽しみにしていました。
――4月に開校する札幌市立の夜間学校・星友館中の校歌を作りました。19日の開校式にも参加されるそうですね。
半﨑 校歌制作は私のHPにご依頼があったのがきっかけでした。
――さっぽろ応援大使を務めている関係からですか。
半﨑 いいえ、昨年6月に札幌市教育委員会の学校教育部の方から、ご依頼がありました。当時は知りませんでしたが、星友中学校の校長に就かれた方からでした。
後日、校長先生から聞いたのですが、以前から私の楽曲を聴いてくださり、いくつもの学校で公演していることもご存じだったそうです。私が制作した佐賀県の星生学園の校歌も聴き、今回、お願いしたとおっしゃっていました。
――どのように校歌を制作されたのですか。
半﨑 最初は夜間中学に関する資料や本、映像を自分なりに集めて勉強しました。その内に、実際の夜間中学を自分の目で見たいと思い、東京のある夜間中学を見に行って校舎の周りを1人でうろうろと……
――えっ!とにかく行動を起こす半﨑さんらしい。
半﨑 それから夜間中学校の元教師の見城慶和先生や、現役の先生とお会いする機会をちょうだいし、見城先生が運営にかかわる自主夜間中学「えんぴつの会」にも行き、生徒のみなさんとも話をしました。札幌の遠友夜学校のみなさんにもお話を聞かせてもらいました。
夜間中学・星友館の校歌に込めた物語
――いろいろな方から話を聞いてご自身の中でどんな構想が生まれ、「私の物語」という校歌になったのですか。
半﨑 いろいろな夜間中学の話を聞く中でとっても印象的だったのは、文字が書けるようになり、ご自身の半生記や手記をつづる方の存在でした。夜間中学に通われた方の文集や手記を読むと、そこに、すべての思いが詰まっていると感じました。人に言えなかった試練、隠したいと思っていた経験、経済的な苦労など、ご自身の軌跡を赤裸々に記されています。
夜間中学に通い、学び、そして、そこでの仲間との出会いを通じて初めて、やっとのことで自分のことを自分の言葉で語り、綴れるようになった。そう思った瞬間、何を軸にすればいいか固まりました。
実は、ショッピングモールでのサイン会で似たような経験をしていたという思いも沸きました。サイン会では、それまで誰にも話せなかった切実な問題や経験を私に打ち明ける方もいます。つらい経験も含めて自分の言葉で語ること。それは、とても尊いことだと私は思っています。
自分自身が主人公として生きること、その物語を未来へと紡いでいくことを軸にし、「私の物語」としました。
――星友館中の校歌「私の物語」にひっかけてうかがいます。5年の節目を迎え、これからの半﨑さんの物語はどうなっていくと思いますか。
半﨑 さきほどお話したように、私の活動の根幹は、暮らしに根ざした歌だと思っています。
ショッピングモールで歌うようになってから、出会った人のお話に耳を傾けていく中で、誰かの思いを歌にするようになりました。自分はあくまで器で、私というフィルターを通して楽曲を届けていく。その意識が強くなっていきました。
小さき声、声なき声を胸の真ん中で受け取って届けていくことが大切で、それこそが私がずっとやっていきたいことだと確信しています。ですからなおさら、夜間中学の校歌制作のお話をいただいた時はうれしかった。これからも、私は一人の媒介者となって、小さき声や思いを歌で未来につないでいきたい。(ききて・野口)
……この続きは本誌財界さっぽろ2022年5月号でお楽しみください。
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