「うちのホクレン」と呼ばれるような組織に
JA士幌町組合長からホクレン新トップに抜擢された、59歳の篠原末治氏。同JAは、北海道農業の大功労者として知られる太田寛一氏の精神を今に受け継ぐ「農業者の理想郷」という。取扱高1兆5000億円の巨大組織をどう導くのか。篠原氏を直撃した。
ホクレン中興の祖の精神を継承する
ホクレン新会長の篠原末治氏は1961年士幌町生まれ。帯広農業高校から北海道中央農業学園を卒業後、実家で就農。2009年にJA士幌町(士幌町農協)理事に就任し、同JA常務、専務を経て18年に代表理事組合長。今年5月、JAグループ北海道役員選考会議での推薦を受け、6月23日のホクレン総会を経て会長に選任された。以下、篠原氏への一問一答。
◇ ◇
――ご自身の生産品目は。
篠原 畑作4品目のばれいしょ(ジャガイモ)、甜菜(ビート)、大豆、小麦と飼料用としてデントコーンを栽培しています。小麦が一番大きくて50ヘクタールほど。全体では150ヘクタールあり、農業生産法人の形態をとっています。
――幼いころから農家になると決めていた。
篠原 当時は家族経営でしたので、手伝いから始めまして、すぐ農業自体に興味を持った記憶があります。
決して農作業は楽なものではありませんでしたが〝つくる〟ということが自分の性にも合っていたのでしょうね。高校も農業高校に進みましたし、地元愛も感じていて。自然に自分が後を継ごうと思っていました。
――JAしほろでの主な活動は。
篠原 26歳から本格的に営農を始めて、青年部にも参加していましたが、とくに役職に就いていたわけではありません。当時の組合長のもとで、農協リースによる水耕栽培に挑戦したくらいです。
――組合長に就任してから取り組んできたことは。
篠原 士幌の特色として、循環型農業が挙げられます。畜産と畑作協力の下、地力づくりをしているということです。それに加えて、生産物の加工から流通までをJAが中心になって手がける、付加価値事業があります。
――生産だけでなく、加工や流通まで手がけるのは、いわゆる6次産業化の取り組みですか。
篠原 そうです。士幌の加工事業における原点は、1955年にできたデンプン工場で、その規模は東洋一。5農協(士幌町・音更町・鹿追町・上士幌町・木野)の馬鈴薯協議会で運営し「馬鈴薯コンビナート」とも呼ばれていました。
加工場の直営や、今では当たり前になったJAによる生乳の一元集荷とメーカーへの販売は、以前に組合長とホクレン会長を務めた太田寛一さん(故人)の業績によるところが、非常に大きいのです。
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太田氏は1915年旧十勝国川西村(現帯広市川西町)生まれ。JA士幌町の前身となる団体に入職し、53年から82年まで28年間にわたり同JA組合長を務めた。
その間にJA直営の加工場運営や生乳の一元集荷・多元販売といった、農家所得と生産物の付加価値向上のための事業を推進。67年には十勝管内8JAによる乳業会社「北海道協同乳業」(現在のよつ葉乳業)も設立した。
72年には手腕を買われてホクレン会長に就任。士幌での取り組みと同様、農産品の付加価値向上を進め「中興の祖」と呼ばれた。77~79年には全国農業協同組合連合会(全農)会長も務めた。
80年に藍綬褒章、翌年に同町名誉町民。82年には正五位勲三等旭日中綬章を受章。84年に死去した翌年には、北海道開発功労賞も贈られている。
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篠原 太田さんは現在のよつ葉乳業の前身である「北海道協同乳業」の設立にも奮闘されました。
その当時、太田さんは自ら1、2カ月ほどかけて世界中を回り、とくにヨーロッパでの見聞から、農民が自ら工場を持たなければならない、という思いに至ったそうです。
乳業会社設立の一方で、士幌では「デンプン工場だけではダメだ、さまざまなことに挑戦しなければならない」と言って、食品工場をつくり、コロッケやポテトチップスといった、さまざまな加工品の製造にも取り組んでいきました。
太田さんがこうした事業をJAの直営で進めていったのは、ひとえに付加価値向上と組合員の所得向上です。JAが組合員から1円でも高く生産物を買い取り、加工場で付加価値を付けて販売する。その利益はできるだけまた組合員に還元する。
JAの事業は、その前提として組合員の理解が必要ですが、士幌の農業者にはこうした「太田イズム」と呼ばれる精神がずっと受け継がれてきています。
――太田さんはホクレン会長としても大先輩にあたります。
篠原 ホクレンに太田さんが来た当時、取扱高は3000億円ほどに低迷する、厳しい時代を迎えていました。太田さんはそれを退任までに4倍の1兆2000億円にまで増やしたといいます。
――中興の祖と呼ばれている理由ですね。
篠原 こうして会長としてホクレンに来てみて、太田さんの残したものが今も息づいていることを実感します。
太田さん以来の士幌出身のホクレン会長として、私もまたそれを受け継ぎながら、自分たちのカラーも出していきたいと考えています。
生産者とJA、ホクレンは一蓮托生
――JAしほろは、道内でも屈指の系統利用率、つまり組合員によるJAの販売・購買事業等の利用率が高いことで知られています。
篠原 JAのさまざまな取り組みについて、組合員に理解してもらっているといいましたが、私自身も含め、正直それは当たり前のことだと思っているんです。
その感覚は、ホクレンについても同じ。組合員、JA、ホクレンは一体として考えているところがあります。だから、系統利用率が高い、と言われても、そこに特別なものも疑問も何もなくて。
――それほどの信頼関係がJA、ホクレンと組合員との間にある。
篠原 「自分のJA」「うちのホクレン」という感覚です。会長就任後初めての記者会見で「一蓮托生」という言葉を使わせてもらいましたが、そのくらいJAもホクレンも身近なもの。生産者として、自分たちのつくったものをJAに出すのは当然のように考えています。
他方で、JAの立場から言えば、JAとしての使命を果たさないといけない。使命とは何か。納められたものを1円でも高く売ること。そして農業資材を1円でも安く提供することです。
そのために、ホクレンという組織のスケールメリットが最大限発揮できるよう、JAもホクレンを応援していくわけです。
――JA、ホクレン、生産者にとっての理想の関係だと。
篠原 そうです。自分たちが頑張って生産して、JA・ホクレンはそれを頑張って売ってくる。モノを納めて、モノを言う。JA・ホクレンとしては言われたことに対しての答えを出す。協同組合の精神というのは、結局そこに帰結すると思います。
――そこまでの信頼関係を築いているJAは、なかなかないのでは。
篠原 すべての生産者にとって、今は選べる時代だし、選ばれる時代です。自分は違う道を行く、という方がいても、それを否定することは誰にもできません。自分の経営は自分で守るものですから。
私たちは、1人でも多くの生産者に信用してもらえるような体制をつくらなくてはならない。それは私たち役員の使命でもあります。
次の100年で農業者の理想郷を
――道内には108のJAがあり、コメや畜産など、さまざまな特色、特産物を持っています。その中には、自身で栽培したことがない、扱ったことがないものもあると思います。
篠原 十勝型の農業で扱っていないものはどれも、私にとって新しい分野です。
まずは学ぶことから始めた上で、コメ、畑作・青果、酪農畜産とそれぞれ担当の副会長とともに、ホクレンとしての戦略、構想を立てていきたいと思います。
各JAの特色をホクレンの中でどう生かし、それぞれの事業につなげていくか。まず特色を十分、自分自身が吸収していく必要があると思っています。
――スケールメリットを生かした事業だけではない。
篠原 JAしほろ組合長時代、400戸弱の組合員に対して、1戸ずつ向き合いながらJAの運営に当たりました。それが自分の信念だからです。
108のJAに対しても同じように向き合って、きめ細やかな販売戦略を立てていくことを考えていかないといけない時代ですし、そうでなければ生き残れないと思います。
――道民を始めとする一般消費者に対しては、どう向き合いますか。
篠原 ホクレンは昨年、100周年を記念して「つくる人を幸せに、食べる人を笑顔に」という新たなコーポレートメッセージを掲げました。
これは私自身、本当にいい言葉だと思っています。組合員、生産者のためのホクレンであるとともに、消費者のみなさんのためのホクレンでもありたい。
さまざまな事業において、生産者、消費者の双方が笑顔になる、理解をしてもらうことが必要です。それが私の使命でありますし、ホクレン職員一人ひとりの使命でもあります。
――次の100年に向けた新時代のトップとして、リーダーシップをどう発揮しますか。
篠原 太田さんはかつて「農村のユートピアをつくる、それが理想であり任務だ」という信念を持っていたといいます。
私も士幌の農業者として、これまで常に先を見据えて行動してきました。
まずはホクレンのこれまでの100年について、あらためて検証を進めていきます。その上で、次の100年で農業者の理想郷をどう築いていくか。そのために何をしていったらいいのかを立ち上げていく。それが私の大きな目標、使命だと思っています。
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