北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (44) ―肥前国(佐賀県民)の北海道開拓
佐賀県は九州北・西部に位置し、人口・面積ともに都府県中42番目で九州ではもっとも狭い県ですが、人口密度は全国で16番目になります。
佐賀藩は1608(慶長13)年以来鍋島家が支配していました。鍋島家10代目の藩主が賢公の誉れ高い鍋島斉正(なりまさ、後の閑叟。直正)。佐賀藩は表向き35万7000石ですが、支藩が多く藩主の実質知行高は6万石程度。斉正公が藩主に就いたころは、相次ぐ自然災害や長崎港警備の重い負担で藩財政は危機的状態でした。この状況を打開すべく斉正公は、役人の数と歳出の大幅カット、債務の削減、産業の育成、そして教育の振興政策を大胆に実行しました。藩財政が回復すると、反射炉による洋式大砲・蒸気機関の製造など、軍事面でも国内随一の力を蓄積。斉正公は「南の端にいながら常に北の端にも目を向け」ロシアの南下政策に対する蝦夷地の防衛と産業開発を心していました。
1856(安政3)年、斉正は藩士の島義勇を蝦夷地に派遣。島が帰郷後提出した調査報告書「入北記」を読んだ斉正は、蝦夷地への進出が緊急かつ重要であることを強く認識し、準備するようになります。藩内の豪商・武富善吉に命じ、蝦夷地との貿易を開始。武富は半官半民の商社「広業商会」を立ち上げ、佐賀藩の財政を支えるとともに、明治期になると佐賀藩士とともに北海道に移住し、釧路地方の開拓に貢献します。
明治維新になると斉正は直正と改名。五稜郭戦争が終わった明治2年6月、明治政府は直正に「蝦夷地開拓の件」の上奏を命じ、翌月には「開拓使」が設置され直正は初代開拓使長官に任じられます。この時直正は病身で蝦夷地に赴くことができず、最も信頼している島を開拓使主席判官とし、自分の名代として送り出します。遠大な構想を描いた賢公・直正とその意を受け、実現に向け厳寒の地で奮闘した島。この2人が現在に至る北海道開拓の嚆矢(こうし)と言えるのではないでしょうか。
また同じ明治2年、各藩による分領支配制が開始されると佐賀藩は釧路地方の厚岸町(浜中・霧多布:キタップ)を担い、佐賀藩(伊万里県)の農耕移民286人を移住させます(200戸630人という記録もあります)。
明治5年に分領支配制度が廃止されると、移住者は開拓使に引き継がれます。佐賀県鹿島市には浜中町があります。浜中町八本木(はちほんじゅく)は伝統的な建造物が立ち並ぶ歴史保存地区で、日本酒の醸造により発展してきた地区です。厚岸町浜中は鹿島市浜中の名を採っているのではないでしょうか。
佐賀出身ではありませんが、分領地の浜中で佐賀藩に雇われたアイヌ人を母に持つ開拓者がいます。彼の名は太田紋助。太田は佐賀藩からの移住者たちを助け、開拓に奔走。また私財を投じてアイヌ民族のために農場を拓き、彼らの生活を支援します。屯田兵制度が開始されると、厚岸地域に屯田兵村を設置すべく現地を克明に調査し、その努力が実ります。この地区に屯田兵村ができ、彼の名を取り「太田兵村」と名付けられました。
厚岸の将来性に着目し、この地に一族を呼び寄せて海産商を始め財を成したのが、佐賀出身の中川喜三郎です。中川は根室、釧路地方の昆布を一手に取扱い、一時は昆布採集船260隻を所有するまでに事業を拡大させました。
また雨竜郡納内(おさむない)や池田村(十勝地方池田町)に広大な農地を所有し、開拓を推進しました。
1882(明治15)年から1935(昭和10)年の間、佐賀県から北海道に移住した戸数は2602戸で都府県では41位ですが、屯田兵としての移住は348戸を数え、全体の3位になっています(堀口敬)。
1885(明治18)年、札幌近郊の江別兵村と野幌兵村にそれぞれ9戸、23戸が入営しています。江別兵村はロシア式暖炉やエドウイン・ダンの進言による暗渠排水工事が行われるなど、先進的な兵村で養蚕も行われていました。
野幌兵村では麻の栽培がおこなわれ、この地に「大麻」の地名が遺されています。両兵村共に、現在は札幌市のベッドタウンとして栄えています。
また新琴似兵村には明治2年に61戸が入営しています。福岡県からの参加者を含め116戸と、兵村全体のほぼ半分を占めています。この地は肥沃で、大麻・大麦・ダイコンなどの農作物が順調に生育しました。防風林として植林したポプラ並木が当時の面影を残しています。
1889(明治22)年、室蘭の輪西兵村に30戸が入り、翌年は奈良・十津川被災難民を一時収容した滝川屯田兵村に58戸が入営。1893(明治26)年から翌年にかけて、佐賀出身の屯田兵とその家族が空知地方に移住。美唄兵村に6戸、高志内兵村に6戸、茶志内兵村に6戸、江部乙兵村に5戸が入営し、1895(明治28)年から翌年にかけては同じく空知地方の秩父別(ちっぷべつ)兵村に24戸、一已(いっちゃん)兵村に31戸、納内(おさむない)兵村に19戸が入営しています。
また、上川地方では1893(明治26)年に当麻兵村に33戸、士別兵村に1戸が、さらに1897(明治30)年から翌年にかけて北見・野付牛兵村に21戸、オホーツク地方の湧別兵村に5戸が入営しています。
鍋島直正の北海道に対する熱い思いが藩士・藩民に引き継がれています。