社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (37) ―紀伊国(和歌山県)の北海道開拓

 和歌山県は日本最大の半島である紀伊半島の南西側に位置し、黒潮の影響を受け年間を通して温暖な地域。変化に富んだ海岸線が続き、北部に県庁所在地・和歌山市が位置。海岸線を南に下がると有田郡湯浅町があり、ここに栖原(すはら)という地名を見ることができます。

 北海道・留萌管内天塩郡にある「天塩厳島神社」には「栖原角兵衛顕彰碑」が建てられており「紀伊の国有田郡栖原村出身の栖原角兵衛をサケ・マスの守護神」として祀っています。紀伊国の血を引く栖原の北海道(蝦夷地)開拓について見てみましょう。

 栖原家は代々角兵衛を名乗っており、三代目までは木材業。同業の飛騨屋が蝦夷檜(トド松・カラ松)を一手に扱って富を築いたことで、蝦夷地への関心を高めます。五代目角兵衛は1764(明和元)年、松前に支店を置き、栖原屋を名乗ります。

 六代目角兵衛の時代に蝦夷地での地位を確固たるものにすると、1786(天明6)年、天売、焼尻(共に日本海、留萌地方の島)の漁場を請け負い、翌年には留萌、苫前、さらに1789(寛政元)年には十勝場所に進出。事業は順調に拡大していきます。

 1789年というと、飛騨屋久兵衛のアイヌ民族に対する苛酷な仕打ちにアイヌの人々が立ち上がり、「クナシリ・メナシの戦い」が勃発した年です。最上徳内の調査報告で、松前藩の藩政が幕府によって厳しく断罪され、1799(寛政11)年、東蝦夷地が松前藩から取り上げられ江戸幕府の直轄に。幕府は栖原屋を東蝦夷地の管理者に任命しました。栖原屋はその後、蝦夷地における漁場請負の第一人者となっていきます。

 八代目、九代目の時代には栖原屋の資産は莫大なものとなり、松前藩から藩財政の切り盛りも任されるに至ります。明治5年、十代目角兵衛は樺太御用達を任じられ、莫大な金額を投資。しかし1875(明治8)年の樺太・千島交換条約で、樺太場所を撤退せざるを得なくなります。

 樺太を失うことで栖原屋は120万円(今の貨幣価値で240億円)の損害を被ることに。その後、千島で漁業、硫黄採掘、缶詰工場などの事業を立ち上げましたが、樺太での損害はあまりにも大きく、三井物産に営業権を譲渡して栖原屋の名は消えてしまいます。五代目角兵衛から十代目までの間、栖原屋で漁師・手代として働いた人たちは数千人に上るでしょう。これらの人達は道外から蝦夷地・北海道に来られ、沿岸部を中心に活躍されたのです。

 1882(明治15)年から1935(昭和10)年の間に和歌山県から北海道に来られた移住者戸数は4559戸と記録されており、都府県別では35位。ただ、屯田兵としての移住者は316戸(1700人)を数え、石川県、福岡県、香川県、山形県、徳島県に次いで6位と記録されています。

 最初の入営地は1889(明治22)年の篠路兵村(札幌)でした。和歌山県からは37戸が入植、ほかに篠路兵村には北陸(福井・石川)、中四国(山口・徳島)、九州8福岡・熊本)と、西日本を中心に広範な地域から参加しています。篠路は石狩川、発寒川、伏古川、篠路川など多くの河川によって育まれた広大な原野。ただ、篠路の歴史は水との戦いの連続でした。特に1902(明治35)年の大洪水で、村のほとんどが水没。生活のすべてを失い、屯田兵村を去る人たちも出ました。

 残った屯田兵及び家族は、畑作主体の農業から稲作への取り組みを始め、1913(大正2)年には篠路兵村土功組合を創設し、670㌶の水田を造成。この地の米作はその後、道央随一の収穫量を誇るまでになっています。屯田兵本部跡は、現在「屯田開拓顕彰広場」として整備されており、「屯田兵顕彰の像」や「馬魂の像」が建立されています。

 篠路兵村入営を端緒とし、1891(明治24)年には上川地方の西永山兵村に39戸が入植しています。永山兵村は、屯田兵制度の父とも言われる永山武四郎の名がつけられています。永山は屯田兵指令官と第二代北海道庁長官を兼任。1889年(明治22)年、上川地区を視察し「上川離宮造営地設定の儀」を政府に建白し、明治天皇と土岐の首相黒田清隆の裁可を得ます。暑苦しい東京・京都を離れ、夏の間涼やかな上川で過ごしていただきたいとの思いからです。天皇の離宮警護を目的とし、永山兵村を中心に上川地区に屯田兵村を建設していきます。離宮建設はなりませんでしたが、永山に続き上川地方には、北剣淵兵村と南剣淵兵村に明治32年、夫々18戸と14戸が入植しました。

 札幌から永山に至る空知地方は、離宮の警護上重要な地域と位置づけ、1890(明治23)年に上川道路を敷設し、この地域に多くの兵村を建設。和歌山県からも1891(明治24)年に美唄兵村に8戸、高志内兵村に6戸、茶志内兵村に6戸が入営。1894(明治27)年には北江部乙兵村と南江部乙兵村にそれぞれ14戸と24戸が、更に平民屯田が施行された1895(明治28)年には東秩父別兵村に22戸、西秩父別兵村に18戸、納内兵村に16戸、南一已兵村に33戸、1896(明治29)年には北一已兵村に7戸が入植しています。空知地方だけで、和歌山県からは10カ所の兵村に154戸が入植したことになります。

 道東地区では1890(明治23)年に釧路地方の南太田兵村に20戸、屯田兵制度終盤の1897(明治30)年と翌1898(明治31)年には北見地方の上野付牛・中野付牛・下野付牛に合計20戸が、そしてオホーツク地方の北湧別・南湧別に合わせて5戸が入植。こちらは北の守りを固めています。厳しい環境の中、和歌山県出身の屯田兵とその家族は、北方防衛と開拓に勤しみ、今日の発展の基礎を築かれました。

 農民団体としては、1896(明治29)年に岩見沢と美瑛町、1918(大正7)年に鶴居村に入植したとの記録がありますが、人数は定かでありません。