社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (36) ―摂津・但馬・播磨・淡路(兵庫県)の北海道開拓

 兵庫県は近畿地方で最大の面積を持ち、北は日本海、南は瀬戸内海と2つの海に接している県です。瀬戸内海の淡路島も兵庫県に含まれています。

 本ブログの第3回「阿波国(徳島県)」で高田屋嘉兵衛を取り上げた時、徳島藩淡路島出身と書きましたが、淡路島は1871年に兵庫県に編入。この編入には庚午事変(こうごじへん、もしくは稲田騒動)が絡んでおり、この事件の影響で淡路島は徳島県から離れ、兵庫県に編入されたのです。

 ちなみに事件が起きた1870年が庚午(かのえ・うま)の年であったために庚午事変と呼ばれています。この年、北海道では島義勇判官が札幌府を建設中であり、食料不足を解消する目的で酒田県(山形県)と新潟県から農民を募って移住させました。その移住者が開拓したのが「庚午一の村」(今の札幌市丘珠)「庚午二の村」(札幌市苗穂)「庚午三の村」(札幌市円山)です。

 庚午事変(稲田騒動)はどうして起きたのでしょうか。当時、徳島(阿波)は蜂須賀家の支配下にあり、淡路(洲本)には家老の稲田氏が派遣されていました。

 明治2年、明治政府は武士の身分を士族と卒族に分け、禄高も身分に応じて減らすこととします。蜂須賀家家臣は全員士族が言い渡される一方、稲田家家臣には卒族が言い渡されます。稲田家は士族への編入を嘆願するとともに、稲田家の分藩運動を起こします。この動きが蜂須賀家の激しい怒りを買い、一部過激派が家老稲田那植(くにたね)の別邸や学問所を襲い、無抵抗の者を殺傷し火を放つ暴挙に出ます。これが世に言う「庚午事変(稲田騒動)」です。

 この事件に対し、明治政府は徳島藩首謀者に切腹・流刑等の厳しい処分を言い渡します。一方の稲田藩には家老の稲田邦植はじめ家臣全員に、北海道静内郡と色丹島(北方四島)への移住が申し渡されます。

 移住は1871(明治4)年から始まり、第一陣546人は同年5月、静内に上陸。第二陣は8月に出発しますが、和歌山沖で岩に乗り上げ、83人の水死者を出す惨事に見舞われます。稲田家が落ち着いた場所は、静内川の上流にあるアイヌのシャチ跡でした。冬を超える前に家財道具一式が燃えるなど、幾多の苦境が家臣団を襲いました。しかし、開拓を諦めることなく今の静内を築いていったのです。

 稲田家の北海道静内移住は、2005年に公開された吉永小百合主演の「北の零年」で描かれており、稲田家家臣団が上陸した場所には碑が建てられています。そこには「静内郡の開拓を命じられた元徳島藩洲本城代家老稲田九郎兵衛那植の家臣たちは、汽船三艘で淡路洲本を出発し、明治四年(一八七一)五月二日、この地に上陸した」と印されています。移住民の子孫は今も地域を支えています。

 明治時代に「開進社」「晩成社」など幾多の会社組織が北海道開拓に取組み、その多くは厳しい環境の中で脱落せざるを得ませんでした。その中で、キリスト教精神を支えに苦難を乗り越え開拓に成功し、現在も700町歩(約694ヘクタール)の広大な社有地で営農している団体があります。それが兵庫県で生まれた「赤心社」です。

 1880(明治13)年、兵庫県士族・鈴木清は、貧民の救済を目的に「赤心社」を設立。「貧乏人も自作農になって豊かに暮らそう」との設立趣意書を作成します。この趣旨に賛同した神戸のキリスト教関係者、貧乏士族が株主として参加。1882(明治15)年4月に第一次移民団54戸が、開拓使から許可を受けた日高地方の浦河郡西舎村(にしちゃむら)に入ります。しかし到着が遅れて種蒔きの時期を失した上に、農具・家具を積んだ帆船がしけで千島に流されるなどの不運が重なり、期待した成果を挙げることはできませんでした。

 社長の鈴木は入植地を元浦河荻伏(おぎふせ)に変更し、翌1883年5月半ばには第二次移民団83人がこの地に到着し、開墾に着手します。この時の団長が沢茂吉。沢は摂津国(兵庫県)三田藩士で、三田教会で洗礼を受けています。沢は「赤心社」を指導し、1885(明治18)年には17戸、1886(明治19)年に6戸、1887(明治20)年に6戸と、次々と移民を受け入れていきます。

 すべてが順調に推移したわけではなく、西南戦争以降のインフレで資金確保に苦戦し、農産物価格の暴落して経営困難に陥りました。沢は経営の多角化に舵を切り、馬や乳牛・肉牛の飼育・果樹栽培・養蚕・ハッカ栽培・乳製品の製造、さらには商事部門や物産販売取次所などの開設で、近代的農業経営方式を取り入れていきます。

 他方で入植者の結束を高めるため「元浦河教会」「私立赤心学校」共済組織「永明会」を設立。沢は教会の中心的人物となり、北海道議会議員としても活動しました。浦河郡浦河町荻付町には「赤心社記念館」があり、沢を始めとした移民団の苦労の跡を偲ぶことができます。

 新琴似屯田兵村が発足した1887年、兵庫士族が輪西(室蘭市)に16戸入植。これを皮切りに、兵庫県からは道内18兵村に合計126戸約500人が移住・入営しています。

 屯田兵村ごとの年度別入営者は、1891(明治24)年の西永山兵村(旭川)への36戸が最も多く、同年には美唄(空知地方)4戸、高志内(空知地方)4戸、茶志内(空知地方)5戸が入営。翌1892(明治25)年、南太田(釧路地方)13戸。明治26年には西当麻(上川地方)4戸、東当麻(空知地方)4戸。1895(明治28)年には西秩父別(空知地方)4戸、東秩父別6戸、南一已(空知地方)4戸、納内(空知地方)2戸。1898(明治31)年に中野付牛(北見地方)1戸、上野付牛6戸、下野付牛2戸、北湧別(北見地方)2戸、南湧別1戸。そして、1899(明治32)年に南剣淵(上川地方)に1戸が移住・入営しています。