社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (32) ―伊勢・志摩・伊賀国(三重県)の北海道開拓

 三重県は日本のほぼ中央に位置し、滋賀県、福井県、岐阜県とともに「日本まんなか共和国」を標榜しています。伊勢神宮を擁し、江戸時代からお伊勢参りで発展。明治維新後、伊勢国・伊賀国・志摩国が統合し三重県となっています。お伊勢参りはお陰詣で(おかげもうで)とも呼ばれ、60年に一度の集団参拝では全国から数百万人が押し寄せたそうです。

 北海道の命名者・松浦武四郎は、伊勢神宮参拝者の通り路、今の松坂市に生まれ、子どものころから各地の様子を耳にする度に見聞を広めたいという思いを膨らませていました。16歳の時には父親からもらった1両を握りしめ、諸国の旅に出ています。

 松浦が蝦夷地の存在を知ったのは、以前長崎に滞在していた際といいます。探検家としての血が騒いだか、1845(弘化2)年に松浦は初めて蝦夷地へ。その後も6回にわたって蝦夷地、北蝦夷地(樺太)を調査・探検しました。

 松浦は「北海道」および道内11カ国86郡の名付け親としても知られています。道内の荒野を探検するのみならず、著述家、地理学者としても多くの足跡を遺し、アイヌの人々に対し深い理解と愛情を持ったヒューマニストとしても知られています。

 1858(安政4)年、松浦は蝦夷地調査の集大成として「東西蝦夷山川地理取調図」という地図を作成しました。28枚からなる当時最大の蝦夷地図で、内陸部まで詳細に描かれています。地図には9800ものアイヌ語地名が記載されており、これらは今日の道内各地の地名のもとにもなっています。

 松浦は常に1冊の手帳(野帳)を懐に入れ、目に触れるもの耳にするものすべてを図や文にして書き留めていました。私の故郷・留萌市の北隣にある小平町の「ニシン文化歴史館」には、まさに手帳を手にした松浦の銅像が建てられています。道内にはこの銅像を含め約40の松浦像・レリーフがあります。彼がいかに道内各地で多くの人たちと交流を深めたかが窺われましょう。

 明治2年に開拓使判官となり「蝦夷地におけるすべての悪は場所請負人制度にある」と上申し、その廃止を訴えましたが、東久世開拓使長官に認められず、7カ月で職を辞しています。ともかくも、三重から来た気骨の探検家が、今の北海道の基盤を造ったのです。

 松浦の銅像がある小平町の日本海側北隣は、風力発電の町・苫前町。風車が勢いよく回るこのまちには、長島と呼ばれる地区があります。明治中期、三重県長島町(現・桑名市長島)からこの地に入植し、故郷を偲んで付けた地区名です。彼らはどのような理由でこの地に来たのでしょうか。

 現在の桑名市は三重県北部、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の河口にあり、数々の河川氾濫による洪水に見舞われ続けた地です。明治政府はオランダの土木専門家に依頼し、1887(明治20)年、治水目的の「木曽三川分流工事」を開始します。始まった当初、工事の完了予定は1912(明治45)年。25年もの長期間にわたる工事中には、土地を失う地主や農家が多数発生して保障金額をめぐって紛争も起き、河口地域の長島地区、および伊曾島(いそしま)地区の殆どの住民は土地を離れなければなりませんでした。その彼らが向かったのが苫前町だったのです。

 1896(明治29)年、三重県桑名市長島団体及び伊曾島団体としてまず28人、翌年には4人が入植します。入植者の懸命な開拓により北の地で米作も成り、その後も多くの三重県出身者が加わりました。
1981(昭和56)年9月 、故郷長島町から集団移住したことにちなみ、三重県桑名市(旧長島町)と苫前町は姉妹都市を締結しています。

 1959(昭和34)年9月26日 、伊勢湾台風が猛威をふるい、多くの人命や家屋が失われ甚大な被害が発生。長島町はほぼ全町が水没して多くの犠牲者を出しました。先の木曽三川分流工事は何だったのだろうか、と今にして考えさせられます。

 歴史の浅い北海道で、2019年に120周年を迎えた会社があります。三重出身の松本菊次郎が興した「日の丸産業」といいます。松本は三重県名護郡比奈知町で1867(慶応3)年に誕生。実家は農家で、1890(明治23)年に函館で生活物資の販売に携わった後、札幌に移って豊平区月寒で農場の開拓に従事。この際「北海道は若い火山灰土が多く、リン酸分が不足がちに違いない」と、肥料の販売を始めます。

「北海道の農業には肥料はいらない」と言われる時代でしたが、従来の農作手法では1反(10アール)あたりの収量低下が現れて来たことも事実でした。松本は各地の農家を訪れて精力的に肥料を販売したことで、業界の雄となっていきます。農業に機械力を投入し生産性を高めることを目指し、米国からトラクターを7台輸入。その威力を実際に農家に伝えることで、道内農業の大規模化・機械化も推進。同社は創業者の志を引き継ぎ、今日も「北海道農業のニーズに応え続けるため、常に技術革新にチャレンジ」することを社是としています。

 三重県からは屯田兵として78戸、約400人が北海道に入植しています。オホーツク地区の北湧別に14戸、南湧別に15戸がそれぞれ1897(明治30)年と翌1898(明治31)年に入営しています。

 また同じ1898年には野付牛(のつけうし・現北見市)に12戸が入っています。ロシア軍侵攻を想定した北辺防衛の重い任務も果たしつつ、酷寒地での開拓にご苦労されてこられました。

 また長島団体・伊曾島団体の苫前移住と同時期の1895(明治28)年、1896(明治29)年に、空知地区の東秩父別(ちっぷべつ)・西秩父別、北一已(いっちゃん)・南一已、納内(おさむない)に合計29戸、上川地区の士別、北剣淵・南剣淵に7戸が入営しています。木曽三川分流工事により、土地を失った方々も含まれているのではと推測されます。