北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (23) ―上総・下総国(千葉県)の北海道開拓
千葉県は江戸時代から大消費地江戸を隣に控え、農業・漁業でも栄えた地域。新たな生活を求めて蝦夷地に渡る人は少なく、明治時代に入ってからも、北海道への移住者は必ずしも多くはありませんでした。1882(明治15)年から1935(昭和10)年の期間の入植戸数は4670戸で全国33位です。
一方、この地は北海道開拓に貢献した2人の先覚者を輩出しています。一人は当時の蝦夷地を調査探検し「大日本沿海輿地全図」を作成した伊能忠敬。もう一人は72歳で厳寒の地斗満(陸別町)に移住してこの地を開拓した医師・関寛斎です。千葉県編ではこのお二人を中心にお伝えします。
伊能忠敬は1745(延亨2)年、千葉の九十九里浜で誕生。少年のころから数学の才覚が抜きんでており、幕府の役人やお坊さんを驚かせるほどだったそうです。18歳で千葉県佐原市で酒造を営む伊能家の養子となり、生来の商才もあり家業を盛り上げていきました。
長男に家督を譲ると、若い頃から興味を持っていた天文学を勉強するために江戸へ。師事したのは天文学の第一人者高橋至時(さねとき)でした。人生50年の時代に伊能はこの時51歳。師の高橋はまだ32歳で、息子といってもいいような若者でしたが、伊能の燃える向上心の前では年齢など取るに足らないもの、と思ったに違いありません。
1800(寛政12)年4月、56歳の伊能は若い門弟3人と下男2人を引き連れ、蝦夷地に向かいました。ちなみにこの年は、近藤重蔵を隊長とした幕府巡検隊が高田屋嘉兵衛の船で択捉島に渡った年でもあります。
箱館から太平洋海岸を歩いてその数で距離を測り、羅針盤で方向を確認しながら厚岸へ到着。帰路も同じ道を通って、往路の測量を確認しながら箱館に戻ります。道中では間宮林蔵とも遭遇。彼に測量方法を伝授しています。
伊能の長年の宿願は子午線1度の距離を測定し、地球の円周を計算することでした。今回の調査で、江戸と蝦夷地との距離と北極星の角度から地球の円周を4万キロと測定しました。
彼の測量家としての名声は高まり、幕府は日本全図の作成を伊能に命じます。すべての測量が終わった時、伊能は70歳を迎え、15年かけて歩いた距離は地球一周と同じ4万キロ。
日本全図作成に没頭したものの、1818(文化15)年、完成前に74歳でその生涯を閉じます。門弟たちは「この地図は伊能先生が作ったもの」と、死を隠して製図にあたり、完成したのが「伊能図」と呼ばれる「大日本沿海輿地全図」です。この図の北海道部分は伊能の教えを受けた間宮林蔵が描いたと言われています。千葉県香取市佐原に「伊能忠敬記念館」があります。
日本最寒の地・陸別の公園に、右手を指し伸ばした銅像が置かれています。「北海道開拓の志をたて、73歳(満72歳)の時、斗南(とまむ)の大地に鍬を下ろす」と刻まれている人物、それが関寛斎です。
関は1830(文政13)年、上総国(現千葉県東金市)の貧乏な農家の長男として生まれました。3歳で母を亡くし、母の姉に引き取られた彼は、18歳で蘭学を志向。佐倉順天堂(千葉県佐倉市)で創始者の佐藤泰然(たいねん)に学んだ後、ヤマサ醤油(千葉県銚子市)七代目当主・浜口梧稜(ごりょう)に見いだされてその後公私ともに支援を受けます。
31歳の時に長崎養生所で最新の西洋医学を学び、その後阿波藩(徳島県)の典医、奥羽越列藩同盟討伐隊病院頭取を経て、徳島県内で町医者になります。名医として尊敬され「関大明神」とも言われたとのことです。
1902(明治35)年4月、関は妻の「あい」とともに北海道へ。同年8月、病身の妻を山鼻(札幌)に残し、斗満に向かって開拓の緒に就きます。初年度は早霜、2年目は害虫の発生、3年目には原因不明の病気で家畜が次々と死んでいくという過酷な開拓作業のあげく、最愛の妻も亡くなりました。
それでも開拓に没頭した1912(明治45)年、10年におよぶ斗満開拓を後身に託し、82歳で生涯を自ら閉じます。入植した時は僅か7人だった開拓者は今や3600人となり、林業・酪農に従事しています。
「十勝地方発祥の地」と呼ばれるのが中川郡豊頃町です。この地(豊頃村二宮)に1896(明治29)年入植したのが二宮尊徳の孫・二宮尊親。翌1897(明治40)年、豊頃町長節(ちょうぶし)地区に入植したのが千葉県の農業団体です。しかし、泥炭地と湿地のため農業に適さず、造林作業等で生計を立てていました。1901(明治44)年に始まった排水・築堤整備などの土地改良工事で、現在は酪農経営中心とした農業が進められています。
屯田兵としての北海道移住も5家族29名と埼玉(4戸)、東京(3戸)、神奈川(なし)と同様に、他府県と比べて限られていますが、高志内(空知)、南江部乙(空知)、北剣淵(上川)、下野付牛(北見)、南湧別(オホーツク)に各1家族が入営しています。
なお、千葉県鎌ケ谷スタジアムは日本ハム二軍チームの拠点です。