社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (13) ―新潟県の北海道開拓

 新潟県から北海道に移住された方々は、1882(明治15)年~1935(昭和10)年の間に6万1636戸・約25万人に上り、青森県、秋田県に次いで都府県で3位となっています。

 新潟県と蝦夷地・北海道との結びつきは、開拓移民の時代よりもさらに遡ります。上方(大阪・瀬戸内)から蝦夷地を目指した「西廻り廻船」と「北前船」の中継基地が新潟湊(現在の新潟港)だったからです。

 この「北前船」交易により、越後国と松前藩は大いに栄えました。「江差の五月は江戸にもない」「元日・節句の有様は江戸に劣らず」といわれ、17世紀末から18世紀初頭の元禄時代、松前の和人地には2万6000人あまりが居住するまでになりました。

 蝦夷地への主力商品は「米」で、帰り船には蝦夷地産のニシン、サケ、昆布などの海産物が送られました。ニシンの魚肥(〆粕)は、肥料として西日本各地の綿花・藍の栽培で貴重品として用いられ、北前船を運用する船主や商人は多大な利益を享受しました。

 一方、飛騨屋久兵衛などの場所請負人がアイヌを酷使して〆粕を生産していたため「クナシリ・メナシの戦い」など、アイヌの人々による蜂起を招いた面もあります。

 新潟県からの大規模移住としては「北越植民社」が挙げられます。戊辰戦争で奥羽越列藩に加盟した長岡藩(中越)は敗れ、石高は3分の1に減封となりました。他の同盟藩同様に民の困窮は極まり、新天地である北海道での開拓に生き残りの道を求めました。そこで創立されたのが「北越植民社」です。主唱者の一人・大橋一蔵は「萩の乱」(長州藩士で明治政府の要人であった前原一誠が長州の萩で起こした反乱)に加わり終身刑を受けますが、北海道開拓を請願して特赦になり、1886(明治19)年1月、同社の創設に加わります。

 同年6月、越後・蒲原郡(かんばらぐん)から最初の移住民10戸が江別に到着。江別市街より石狩川上流約2キロ遡る地を越後村(現江別市江別太)として入植しました。なお、越後村の名は現在は残っておりません。

 大橋はその後不慮の死を遂げますが、関矢孫左衛門が後を継ぎます。関谷は国会議員の職を投げ打ち、開拓者たちの先頭に立つ決意を固め、1890(明治23)年6月、北越殖民社移住団を率いて、現在の江別市野幌に集団移住しました。入植者は135戸632人です。

 関矢は移住者と面談を重ね「長岡で喰えぬものは、北海道でも食べていけない」と「規約の順守・勉学に励むこと」「礼節を重んじる事」「節約を旨とすること」を諭しました。

 移住者の心の拠り所にすべく、1891(明治24)年に「真宗大谷派 天楽山瑞雲寺」を建立(江別市西野幌134)。移住民は全員が檀家になり、また同年「野幌神社」の社地を選定。28年には本殿・拝殿を建設し、郷土新潟の伊夜日子大神(いやひこのおおかみ)を祀りました。「野幌神社」も西野幌の「瑞雲寺」の近くに建てられています。寺と神社ができたことにより、移住民の心は一つになったのです。

 その後野幌の地には、1895(明治28)年に264戸・1145人、1898(明治31)年に320戸・1550人と拡大していきます。1911(明治44)年、二宮尊徳の唱える「報徳」農法を学び、実践すべく「野幌報徳会」が設立され、移住者全員が加盟します。

 野幌は1921(大正10)年、天然記念物「野幌原始林」に指定されます。1970(昭和45)年、この地に「北海道百年記念塔」が建てられ、その後「北海道開拓記念館」「北海道開拓の村」が開館し北海道開拓の歴史を伝えています。

 新潟(越後)から北海道への農業団体移住としては、1887(明治20)年代に厚田村望来(現石狩市厚田区)への入植があり、この地は越後沢と名付けられています。また、1888(明治21)年の空知地方・富良野、1893(明治26)年の雨竜町、1898(明治31)年の初山別村、1900(明治33)年の幌延町にそれぞれ入植しています。

 屯田兵制度で北海道に移住した新潟県人は194戸・約800人で、その内の130戸が根室の和田屯田兵村に配属されています。北の守りを固める目的で道東地域に配置されましたが、土地は悪く、厳しい冬、濃霧に覆われる夏と、厳しい環境の中での開拓は想像を絶するものでした。退役すると同時に各地に散っていったと言われています。

 和田屯田(東・西)以外では、1891(明治24)年入植の東永山屯田の22戸を除くと一ケタの戸数で、琴似、美唄、高志内、東秩父別、東当麻、士別、北・南剣淵、上・中・下野付牛、北・南湧別に入植しています。

 札幌市大通公園西2丁目に「愛」と刻印された「花の母子像」が置かれています。1971(昭和46)年に建てられた像で「創業100年を記念して丸井今井が寄贈した」と横の説明板に書かれています。長く北海道の商業界をリードしてきた「まるいさん」。丸井今井は1872(明治5)年、新潟県三条市出身の今井藤七が24才で創業しました。「正札販売」「大規模百貨店方式」と次々と挑戦し、北海道の流通業近代化に大きく貢献してきました。

「岩井靴店」創業者の岩井信六は新潟県長岡生まれ。札幌農学校で製靴師として雇われ、1878(明治11)年札幌で履製造所を構え岩井靴店に継承されています。道内建設業を代表する伊藤組土建の前身伊藤組は、新潟県から渡道した伊藤亀太郎が1893(明治26)年に創業しました。

 このように、新潟県人が北海道の開発・発展に寄与した足跡は数えきれないほど残されています。