社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (9) ―庄内藩・米沢藩(酒田県・山形県)の北海道開拓

 1859(安政6)年、幕府は蝦夷地を分割し奥羽諸藩に分割統治させました。庄内藩は浜益、留萌、苫前、天塩、天売を管轄することになります。

 1862(文久2)年、病身の身でこの地区の管轄責任者となった父とともに、苫前に赴任したのが後に開拓使大判官となる松本十郎(戸田総一郎)。当時23歳の若者でした。庄内藩士、農夫、職人、総勢370人余りでこの地の開拓と警備の任に当たります。日本海からの猛烈な風が吹き、冬には吹雪が荒れ狂う地です。

 苫前町では「三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)」が1915(大正4)年に発生しています。500キロ近くのヒグマが、胎児を含め7人を食いちぎり、3人に大けがを負わせた事件です。庄内藩の統治時期にもヒグマは出没し、開拓民を苦しめていたことでしょう。

 勤皇・佐幕の風雲が急を告げる中、庄内藩士は藩の呼び出しで帰藩し、戊辰戦争(奥羽戦争)が始まります。庄内藩は奥羽越列藩同盟の雄藩として参戦。戊辰戦争で連戦連勝、略奪行為はせず、敵側の死者を弔い、最後まで薩長を中核とする官軍と戦ったと言われています。しかし、同盟を結んだ他藩の多くが官軍に敗れるか帰順し、1968年9月、ついに庄内藩も降伏します。

 戸田総一郎は松本十郎と名を改め、黒田清隆により「開拓使」判官へと任ぜられます。明治2年9月、開拓使はテールス号で函館に向かいますが、松本は函館から130人の移住者を率いて根室を目指します。これら移住者は東京から押し付けられた無宿者や浮浪者で、役立たない者も多かったそうです。それでも松本は根室・花咲・野付、その後標津・斜里・網走・釧路にも開拓の地を広げていきます。

 松本と同じく開拓使判官となり、函館から開拓3神を背に札幌に向かったのが島義勇です。北海道の本府となる都市を建設するのが島の任務ですが、当時東北地方は飢饉。食料確保が島の緊急の課題でした。

 島は札幌の地で食料となる作物を栽培すべきと、部下を東北(酒田県:現山形県酒田市)に派遣し、移住民を募ります。ですが、島は移住民を迎えることなく判官の身を追われて北海道を退去。その後、札幌に到着した移住民たちが開拓したのが、その年の名前を冠した「庚午(かのえうま)一の村(36戸)」「庚午二の村(30戸)」「庚午三の村(30戸)」。現在はそれぞれ「苗穂」「丘珠」「円山」と呼ばれ、大都市・札幌として発展する礎となりました。

 明治に入り、庄内藩では産業振興策で大規模に桑畑を開墾し、養蚕に成功。松本十郎はこれを聞き、札幌でもぜひ取り組みたいと、故郷の庄内藩士200人を招いて指導を受け、箱館では21万坪、札幌で10万坪の桑園を開墾しました。

 札幌では中央区のJR桑園駅とその周辺に名残を残していますが、駅の南側から南1条通りにかけて桑園が広がっていたようです。なお、北海道知事公館敷地にはかつて桑園の事務所が設置されており、今はその場所に桑園碑が建てられています。

 また、松本は季節の花を愛で、現在の大通西3、4丁目の官舎前に花畑を造営しました。これが大通公園の始まりで、今では200万市民の憩いの場となっています。

 山形県は屯田兵として、多くの旧藩士・農民を北海道に移住させています。堀口敬の「屯田兵名簿」には453人の山形県出身屯田兵の名前が記されています。屯田兵制度発足当初の琴似には1875(明治8)年に9戸、山鼻には翌1876(明治9)年に9戸、江別には1881(明治14)年に9戸、1884(明治17)年に19戸と、早い時期から参加しています。

 1891(明治24)年、北海道集治監の網走分監が設置されましたが、その目的はロシア南下政策に対応しようとするもの。永山武四郎屯田兵本部長が「北見峠から網走までの道路160キロを年内に完成せよ」と厳命を発しました。

 この工事で、1150人の囚人の内900人が発病し、200人が亡くなったと記録されています。この犠牲の上に設けられたのが北見・根室地区の屯田兵村です。

 北見地方の野付牛屯田兵村には山形県から63戸が1898(明治31)年に入植、厚岸の太田屯田には1890(明治23)年に99戸が、湧別には1898(明治31)年に35戸が、そして根室の和田屯田には22戸が入営しています。また、滝川に102戸を始めとし、空知地区に114戸、上川地区には東永山の42戸を始め77戸の入営記録が残されています。

 1885(明治18)年、庄内藩士105戸が渡島地方・木古内町に入植し、この地を出身地山形県鶴岡市の名前を取り鶴岡としました。両地の小学校同士が姉妹校となり学校間の交流を続けてきましたが、1989(平成元)年、両鶴岡が姉妹都市となり、産業・文化面の絆を強めています。

 空知地方・美唄市西美唄町山形地区には山形県出身者が多く移住しています。1894(明治27)年、山形村山地方の零細農民が農民移住団体を組織。この地区の開拓が始まり、1921(大正10)年には水田化に取り組むと、さらに山形県からの移住民が増えています。地縁・血縁のネットワークを大切にしている県民性によるものでしょうか。

 同じく、夕張郡由仁町にも山形の地名があります。こちらは明治30年に山形県東村山郡からの移住者が入植した地です。

 農業団体移住としては、1875(明治8)年に渡島管内大野町、1894(明治27)年に湧別町、1898(明治31)年、1901(明治34)年に天塩町、1899(明治32)年に十勝管内新得町・清水町、1902(明治35)年に上川管内北部の士別市、1911(明治44)年に斜里町、1913(大正2)年に富良野市、1915(大正4)年と1916(大正5)年に上湧別町、1918(大正7)年に宗谷地方の枝幸町と、北海道各地に移住したことが記されています。こうした山形県人の苦労は北海道各地で知ることができます。