社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (8) ―南部藩(岩手県)の北海道開拓

 岩手県は都道府県で北海道に次ぐ2番目の面積。北上川に沿って広い平野が広がっています。この日本の“ふるさと”を限りなく愛した作家が岩手出身の石川啄木であり宮沢賢治です。二人の作品にも、この地の人々の優しさや、和やかさがにじみ出ています。

 今、世界中は新型コロナウイルス(COVID-19)が蔓延していますが、2020年9月現在、岩手県は全国一低い感染者数が続いています。県民のお互いをいたわる気持ち、そして清潔を旨とする生活慣習が幸いしているのではないかと思われます。

 さて、岩手県と北海道は歴史的に深い関係を持っています。江戸時代初期、岩手県にもアイヌ民族がおり、蝦夷地と行き来をしていました。盛岡藩(南部藩)はアイヌの人達を仲介して交易を盛んに営んでいたのです。

 クナシリ・メナシの戦い(1789年)で、松前藩はアイヌ人の蜂起を鎮圧しましたが、この時盛岡藩の出稼ぎ労働者の一部がアイヌ側に保護され、盛岡藩に引き渡されたのことです。長年盛岡藩とアイヌ民族との間で培われた交流の深さが窺われます。

 函館山の坂道に「南部坂」が、室蘭には陣屋町があり、そこに国指定遺跡「モロラン陣屋跡」があります。長万部町にも国の文化財「ヲシャマンベ陣屋跡」、森町にも国指定史跡「砂原陣屋跡」があり、訪れることが出来ます。

 1799(寛政11)年、松前藩の悪行が調査隊により明らかになると、幕府は松前藩を東北に移封し、ロシアの侵攻を食い止める目的で蝦夷地の直轄領化を始めます。盛岡藩は渡島国・胆振国・択捉国での駐留を命じられました。

 1854(安政2)年、箱館が開港となり箱館奉行所が設置されると、南部藩(盛岡藩)は箱館から登別までの沿岸警備を命じられ、この際、新たな陣屋に210人の藩士が駐在します(その後室蘭へ)。また、佐原陣屋には50人が配置につきます。1868(慶応4)年、戊辰戦争にともない蝦夷地警護を撤退する際、箱館陣屋に火を放って帰国し、今は陣屋跡を見ることはできません。

 明治に入り、新政府・開拓使は屯田兵制度を設け、当初は士族屯田兵移住を推進します。岩手県からは旧盛岡藩藩士が、琴似兵村に4人、琴似(発寒)兵村に19人、山鼻兵村に2人、江別兵村に10人が家族とともに入営します。

 平民屯田になってからは、高志内、茶志内、北江部乙、東当麻、士別、上野付牛、北湧別、南湧別の各屯田兵村に入りますが、いずれも1人から多くて3人。他府県からは同一兵村に20人から30人と、まとまって入営しているのと比べるとその人数の少なさが不思議に感じられます。推測するに「1,2家族でもやっていける」という気概があったのではないでしょうか。岩手県からの屯田兵制度参加者は、合計46戸、103人で、東北、北陸、四国各県と比べてその数が限られるのは、自然災害の発生が少なかったせいもあるのかもしれません。

 農業団体の移住としては明治4年、札幌近郊の花畔村(現石狩市)に39戸が入植したのを始め、上川・鷹栖町(明治26年)、喜茂別町(明治34年)、鶴居村(明治35年)、天塩町(明治40年)、当別町(明治42年)、雄武町(明治44年)、占冠村(大正5年)、白糠町・鶴居村(大正6年)、芽室町(大正8年)に移住。道北・道東での厳しい環境下で開拓に従事しました。なお、明治45年に移住した中頓別町には「岩手」地区があります。

 明治15年から昭和10年までの間で岩手県からの北海道への移住者は40,318戸で、都府県別で7位となっています。

 岩手出身の文学者として北海道とも関係の深い方々について触れます。

 石川啄木は、その銅像が大通公園にもあり、小樽、函館で苦難な生活を過ごしました。「一握の砂」等多くの名作を遺しましたが、肺疾患と窮乏の内に亡くなり、函館立待岬に墓碑があり遺骨も残されています。啄木の歌碑は全国に174あるそうですが、北海道内には地元岩手県に次ぐ47の碑が建てられています。多くの北海道の人達に好かれ、影響を与えた証左でもありましょう。

 下宿に転がり込んだ石川啄木に金を貸し、家賃まで払って一時期一緒に生活し援助したのが、アイヌ研究の大家・岩手県出身の金田一京助です。

 金田一は中学校で国語教師をしていましたが、語学に特別の才能があったのでしょう、上野公園で開催していた博覧会で、参加していた樺太アイヌの人からアイヌ語を聞き取り、ユーカラを訳すまでになりました。

 1912年、白瀬大尉が南極大陸を探検する際、参加した隊員の中にアイヌ人の山辺安之助がいました。帰国後、金田一は彼からアイヌ言葉を口述筆記し「あいぬ物語」を書き下ろします。このあたりのいきさつについては、2019年(162回)直木賞に輝いた川越壮一著・「熱源」に詳しく記載されています。

 さて、金田一は1918(大正7)年、北海道調査旅行中にユーカラの伝承者・金成マツを訪れ、そこで養女(マツの妹の娘)知里幸恵と会います。金田一は幸恵を「頭脳の良さ、語学の天才」「天使のような女性」と絶賛し、上京することを勧めます。幸恵は持病の心臓病が思わしくなかったものの、1922(大正11)年に上京し金田一宅に寄寓。「アイヌ神謡集」を書き上げます。その直後、幸恵は19歳の短い生涯を閉じることになります。

「アイヌ神謡集」はアイヌ民族の豊かな文化と悲哀を後世に伝え、金田一はアイヌ語研究に一生を捧げました。