北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (30) ―駿府国・伊豆国(静岡県)の北海道開拓
静岡県は全国10位の360万人の人口を擁し、伊豆・熱海など多くの観光地を抱える豊かで温暖な地域です。面積は全国13番目とはいえ北海道のほぼ13分の1。その静岡県民が「静岡県と北海道は地形的に似ている」と、一度は考えるそうです。
実際、静岡県の県旗に描かれている県章は、見方によっては北海道とよく似ており、静岡県の向きと角度を変え、拡大していくと北海道らしい形になってきます。そんな北海道と静岡県の関係を歴史面から見ていきましょう。
静岡県出身者というと、まず第一に十勝開拓の「農聖」「拓聖」と呼ばれている依田勉三が挙げられましょう。依田は1853(嘉永6)年、ペリー来航の1か月前にあたりますが、豪農の子として今の静岡県賀茂郡中川村字大沢に生を受けます。
1881(明治14)年に単身北海道へ渡り、今の十勝地方を調査。同年、1万町歩(3000万坪)の未開地無償払下げを受け「晩成社」を設立します。帯広神社近くの公園には依田の銅像が建っており、立て看板には「依田勉三は、伊豆松崎で結成した晩成社の同士13戸27名を率いて明治16年(1883年)5月に帯広に入植しました。それ以来、過酷な状況にもめげず開拓に励み、今日の帯広・十勝発展の基礎を築きました」と記されています。
しかし、人跡未踏地の開拓は困難を極めます。依田の率いる晩成社がオベリベリ(帯広)に集団入植した当時、内陸には道路もなく自給自足さえも困難な状態。野火の発生、早霜や降雪、トノサマバッタの被害(蝗害)、風土病(おこり)などが次々に発生。苦難の連続に移住民の間では不平や不満があふれて逃げ出す者が続出。当初1万ヘクタールの構想で開拓に取り組んだものが、わずか30ヘクタールの原野開拓に10年の歳月を要しました。
1887(明治20)年には生花苗(おいかまなえ、今の大樹町)に1万ヘクタールの土地を得て牧畜を始めます。その後、乳牛事業、澱粉製造事業、養蚕、リンゴ・ビート・亜麻・シイタケ栽培など、20程の事業に取り組みますが、いずれも期待した成果は得られませんでした。依田の努力がようやく実ったのが1920(大正9)年、途別(今の十勝管内札内)で耕作した水田でした。その初穂を持って記念撮影した時の姿が帯広神社近くの公園に建てられている銅像です。
依田は42年にわたって十勝の地で失敗に次ぐ失敗を重ねましたが、その経験が彼に続く開拓者達の良き教訓となり、今の農業王国十勝の礎になったのではないでしょうか。北海道神宮の末社「開拓神社」は1938(昭和13)年に建立され、当初36人の北海道開拓に尽くした方々を祀っておりましたが、1954(昭和29)年、十勝地区有志の請願で依田勉三も合祀されています。
北海道南西部檜山支庁に位置する瀬棚郡今金町に「金原(きんぱら)農場」があり、2007年まで当地に今金町立「金原(きんぱら)小学校」がありました。金原という名はどのような経緯でつけられたのでしょうか。1868(慶応4)年、天竜川が大雨により堤防が決壊、浜松を中心に大被害をもたらしました。今後の被害を防ぐため、堤防の復旧工事を率先して指揮したのが静岡県浜名郡和田村村長の金原明善(きんぱら・めいぜん)です。
すぐれた経営手腕を発揮し、2カ月間で工事を完了させ、明治天皇より名字帯刀を許されています。この金原明善に北海道開拓の資金援助を依頼したのが本連載「福島県編」で取り上げた丹羽五郎です。丹羽は会津藩士族で北海道に新天地の開拓を夢見るようになり、開拓計画を立てますが問題は資金です。
丹羽は金原に相談し、その熱意に心打たれた明善は無抵当無利子で出資。丹羽はその出資金を元に渡道、北海道瀬棚郡目名地区(現・北海道瀬棚郡今金町鈴岡)に農場の開拓を開始したのです。その農場は金原農場とよばれました。金原は開拓事業には直接携わらなかったのですが、幾度も渡道して農場を巡回慰安・激励したとのことです。
ペリーの来航で、下田を中心とする伊豆半島は国防の要衝となりました。当時伊豆半島を管轄するのが韮山(にらやま)代官所で、代官として率いていたのは江川英龍(ひでたつ)。江川は先見性に優れ、開国が不可避であることを早くから見てとって渡邊崋山に師事し、西洋事情を深めました。幕府にも海防と兵制について先見的な具申を重ね、また韮山代官所に溶鉱炉(反射炉)を造り、洋式砲術を中核とした用兵術で塾生を訓練。品川の台場建造も指揮しております。江川に師事し、欧米流民主主義を学んだ人たちの中に北海道開拓の先覚者達の名を見ることができます。箱館代官所の代官として近代化の土台を築いた堀織部正利煕(ほり・おりべのしょう・としひろ)、堀の下で五稜郭やお台場を設計した天下の英才・大鳥圭介がおり、8隻の軍艦を率い薩長に対抗すべく箱館に「蝦夷共和国」を設立した榎本武揚、榎本の下で最後まで戦い戦死した土方歳三、中島三郎助親子など。箱館戦争の後、榎本軍の少なからざる兵士が北海道各地に散りました。
江川から堀、榎本たちの先見的・科学的・民主主義に根差した思考は、旧榎本軍の兵士たちに引き継がれ、その後の北海道の発展に大きく寄与しました。江川は2度目のペリー来航の翌年、惜しまれながら世を去りました。享年55。旗本最高の地位・勘定奉行に任命される直前でした。
屯田兵としては、静岡県より上川郡当麻町に10戸を始め、茶志内・納内・士別・剣淵・一已町に合計20戸117人が入営しています。