社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (5) ― 讃岐国(香川県)の北海道開拓

 四国の東北部に位置し、瀬戸内海に面する香川県。その総面積は約7000平方キロメートルで全国47位と、日本で最も小さい県です。

 著名な「四国八十八カ所御遍路」は徳島阿波に始まり、高知土佐、愛媛伊予からこの香川讃岐に至る1450キロを巡るもので、88カ所目のゴールが香川県内にある大窪寺(おおくぼじ)。ここでともにした金剛杖をお寺に納めることになっています。

 その香川県からは、1882(明治15)年から1935(昭和10)年にかけて1万4367戸・約6万人もの人々が北海道に移住してきました。これは都府県別移住者数で14番目に多い人数です。現在の都道府県庁間の距離にしておよそ1157.2キロも離れた遠い香川県から、約44倍もの面積を持つ北海道へ渡ってきた人々は、どのような思いを抱いてやってきたのでしょうか。

 香川県の歴史年表によると、1887(明治20)年に丸亀藩士の三橋正之ら22戸76人が、北海道虻田郡に移住のため出発。洞爺湖北側の大原地区に移住し「洞爺村」を開基したと記されています。1889(明治22)年には第2陣として80戸余りが洞爺村湖岸に移住し、この地を「香川」として開拓が始められました。現在の後志管内洞爺湖町財田にある「徳浄寺」は、香川出身の僧侶が、かの地から開拓に来られた方々を弔うために建立したと伝わっています。

 同町所蔵の文化財「岩倉日誌」は、第1陣として移住してきた岩倉三代吉が綴った、開拓記録日誌です。岩倉は香川県で教員をしていましたが、3家族で当時の有珠郡伊達村(現伊達市)に到着します。

 この日誌の一編をご紹介します。

「腐りかけた舟で湖畔を渡り、割り当てられた土地に辿り着きます。貸付の土地はことごとく樹林で、熊や山犬が横行し、土地は劣悪を極めていた。郷里から持ってきた種子は用をなさず、真夏に大霜が降り、作物は一夜にして枯死状態。薯(イモ)がわずかに採れただけ。初めの冬は飢えと寒さで生死と隣り合わせだった。慣れない気候風土と過労で病に倒れ、死者も少なからず出る有様。このような中でも徐々に土地に馴れ、開墾もわずかながら軌道に乗り、お互いに扶助し合いながら生活にも余裕ができるまでになった」

 香川県では1891(明治24)年前半より、徳島県とともに県内の移住熱が高まったと言われています。その流れを作ったのが時の香川県知事・谷森真男で、県民にはこのように移住を勧めています。

「他県に比べて三倍の人口密度(現在も人口密度全国11位)で、余剰人員は路頭を彷徨うことになろう。人民を移して北海道に住まわせればわが県の前途にとって幸いである。北海道は耕作に適し肥沃な平原が三億坪もあり、牧畜に適する土地は一千万坪あり、魚貝は河海に満ちている。五、六年で十町の良田も得ることが可能だ」

 多くの県民がこの言葉に乗ったのでしょうか、移住団体が続々と北海道にやってくることになりました。入植した人数が多かったのは雨竜郡南秩父別(現空知管内秩父別町)。前回紹介した「蜂須賀農場」で徳島県人とともに、開拓に勤しみました。1893(明治26)年には留萌管内苫前町に、1900(明治33)年には後志管内蘭越町に入り、ここに「夫々香川」「讃岐」という地名を残しています。室蘭市には1892(明治25)年、久保治平の一族が入植し、この地を香川町としています。

 農民移住とともに屯田兵として移住した香川県人も多く、335戸・2005人を数え、人数としては石川県に続いて都府県別で2位になっています。1890(明治23)年以降、士族に限らず平民も屯田兵に募集・参加できるようになり、平民屯田として開拓と北方からの守りの任務に就きました。

 香川出身者が主に駐屯したのが雨竜原野で、1895(明治28)年とその翌年に分けて入村しています。雨竜原野の納内(おさむない:現深川市)兵村に200戸、一已(いっちゃん:同)兵村に400戸、秩父別に400戸が配置されました。これらの兵村で四国出身者の割合は35%を数え、そのうち香川県出身者は207戸と最も多くの入植者を出しています。ここでは一已兵村に入植した香川県人について触れてみます。

 1895(明治28)年、香川県人39戸を含む第1陣200戸は5月7日に小樽に着き、北一已兵村に入村、翌年には香川県人37戸を含む200戸が4月に南一已兵村へ到着します。抽選で決まっていた兵屋に夫婦で入居しますが、急ごしらえの道があるだけで兵屋は原始の森の真っただ中です。

 入植した場所は前出の蜂須賀農場の跡地で、雨竜などの近在の地域には農民団体が既に入植しており、ほかの屯田兵村に比べると比較的有利な地ではありました。しかし南方の地から移住した人たちにとり、その生活は想像を絶するものだったようで、昼夜を問わず暗い原生林で、ヤブカやヒグマに悩まされ、開拓は遅々として進みません。冬も豪雪と寒波に悩まされ、生きていくのがやっとの生活だったとのことです。

 想像を絶する苦労の末、1896(明治29)年に稲作が成功し、養蚕も盛んになると、移住者の生活は改善していきました。

 現在の深川市一已町大師にある「丸山寺」は、移住者たちが故郷に見立てて近隣の丸山に建てたもの。「新四国八十八カ所霊場」として、現在も八十八カ所巡りの地になっています。

 同寺には屯田兵が高く鍬を掲げて開墾している「拓魂碑」像も造立され、当時の屯田兵の苦労を偲ぶことができます。