北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (3) ― 阿波国(徳島県)の北海道開拓
日本海の大海原を疾走する北前船、大きな帆には丸高の印が浮かび上がっている――高田屋嘉兵衛の持ち船です。高田屋は国後島から択捉島への航路を開発して北洋漁業を営み、箱館を拠点に財を為した人物。司馬遼太郎も高田屋をこよなく愛し「今も世界のどんな舞台においても通用できる人」と評しています。
高田屋は1769(明和6)年、当時の徳島藩淡路島(1876年兵庫県に編入)の出身。28歳で船主となり「北前船」を駆使して、松前・函館まで交易していました。蝦夷地から北前船で持ち帰ってきたものは主に「魚肥」や「〆粕」。当時、肥料として珍重されていたものでした。
徳島藩では、それらの魚肥は特産物「藍」の栽培に使われていましたが、1875(明治8)年頃、魚肥の価格が高騰すると、逆に魚肥の生産地である北海道で藍を栽培できないか、と考えられるようになりました。
それより少し前の明治2年、明治政府は分領支配制度を取り、徳島藩には日高国新冠郡が割り当てられました。その2年後、阿波藩士の稲田家家臣団が近くの静内地方に移住して「藍」の栽培に取り組み、大きな成果を挙げています。
1879(明治12)年、稲田家配下の仁木竹吉は、徳島県内各地から農民117戸3660余人を余市原野(現在の仁木町)に入植させて藍の栽培を開始します。道内での藍作はここから普及していきました。
一方、1881(明治14)年に北海道開拓の目的で「徳島興産社」が設立。社長に阿部興人、副社長に鳴門市出身の滝本五郎が就任しました。滝本は札幌郡篠路村(現札幌市北区篠路)に農場と製造所を設け、同様に藍の生産に乗り出します。北海道庁もこれを推進し、北海道産の藍は本場の阿波藍を凌ぐほどになります。
篠路には現在「北海道札幌英藍高等学校」という、校名や校章に藍が使われている学校があります。もちろんそこには、藍の生産が盛んだった地域の歴史と文化を大切にしようという思いが込められているのでしょう。
篠路からさらに北東には「あいの里」地区があります。1980年代から宅地開発が始まり、現在は3万人ほどが住むニュータウンとなっていますが、明治中期にはここから篠路町拓北にかけた一帯が徳島興産社の農場と製材所でした。
同社で受け入れる藍の作付けは、篠路から丘珠、札幌、白石村、さらには余市、仁木にまで広がったといいます。1890(明治23)年には内国勧業博覧会で徳島興産社の藍玉が一等有功賞となるなど、品質は高く評価されました。
しかし、明治も20年代になると安価なインド藍が盛んに生産されるようになり、化学染料の合成藍も進出。徳島興産社は事業を中止せざるを得なくなりました。
徳島藩最後藩主となった14代蜂須賀茂韶(はちすか・もちあき)は、イギリスのオックスフォード大学でも学んだ知識人。北海道開拓の可能性を感じ、私財を投げ売って積極的に取り組みました。
1893(明治26)年には雨竜郡に6000町歩の官有未開地の貸し下げを受け、蜂須賀農場を開設します。1897(明治30)年には小作制を採用し、徳島県を始め各地から移住者を募集。畑作から米作に順次変換して経営規模を拡大し、日本の代表的な大農場にまで成長させました。戦後の農地解放で農場は解散しましたが、現地には蜂須賀家を祀る雨竜神社が残されています。
明治中期になって徳島県の経済・産業が停滞期を迎えると、打開策として北海道への移住が奨励され始めます。県内の有力者によって「那賀郡北海道植民同盟会」が結成され、組織的な北海道移住を支援する動きもありました。
この植民同盟会の委員長をしていた友成士寿太郎は、北海道開拓の状況調査を経て1891(明治24)年、石狩郡樺戸郡月形町キウスナイ(黄臼内)に250万坪の土地を得て、地元の徳島県那賀郡の人々から移住を募ります。幾多の困難こそありましたが、水田の作付け成功もあり、明治33年までに友成農場には202戸が入植しておりました。
植民同盟会は樺戸郡月形での成功をもとに、空知郡栗沢村(現・栗沢町)、十勝国中川郡蝶多村(現・池田町)、中川郡勇足村(現・本別町)などにも入植地を拡大していきました。今日の農業大国・北海道の基礎をつくり上げたと言ってもいいでしょう。
政財界の支援で進められた道内移住者の数は、1882(明治15)年から1935年までで1万8000戸、5万人という記録が残っています。この数は東北・北陸の各県に続く46都府県中12位の数字になります。このうち屯田兵制度による徳島県からの入植者は329戸・1698人。石川県、香川県、福岡県に次いで多い人数です。
なお徳島県から北海道開拓に取り組んだ人物としては、高田屋嘉兵衛のほか樺太(サハリン)に人生をかけた開拓使判官・岡本監輔、1902年(明治35年)に72才で極寒の地・陸別(斗満)に入地し、82歳までその地で開拓に取り組んだ医師・関寛斎が挙げられます。
これらの先覚者については本ブログ「北海道開拓の先覚者」シリーズ、もしくは拙書「北加伊道六〇話」に詳細が書かれておりますので、そちらを参考にしていただけますと幸いです。