社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (6) ― 津軽藩・南部藩(青森県)の北海道開拓

 オホーツク管内と根室管内を分ける、知床半島の根幹に位置する斜里町。この町の町民公園には「津軽藩士殉難慰霊碑」があります。この碑のもとで、同藩の藩士、72人が眠っています。開拓当時、この地では何があったのでしょうか。

 蝦夷地が「北海道」と命名される62年前の1807(文化4)年。この当時はロシア兵が数度にわたって択捉島や利尻島に上陸し、略奪行為を繰り返していました(文化露寇:ろこう)。それまで蝦夷地を支配していた松前藩は、北方警備に対しての無力ぶりや放漫な藩政によって時の幕府により東北に移封され、会津藩・秋田藩・南部藩などの東北諸藩に蝦夷地の警備を命じます。

 そのひとつ、津軽藩が警備を任されたのは宗谷・斜里、及び樺太の日本最北地域でした。100人の藩士が斜里に到着したのは、1807年9月1日のこと。まず周辺のトドマツを伐採して陣屋を建造しましたが、この地の寒さは津軽藩士ですら経験をしたことがない苛烈なもの。粗末な家屋で耐えられるものではありませんでした。

 風が吹きすさぶ高台の住居は、茅葺(かやぶき)ですきま風が入り込み、布団が全員に行き渡らず、暖房用の薪は生木で大量の煙が藩士の目を傷めるという有様。季節外れの流氷で生魚を採ることもできず、流氷伝いに押し寄せるかもしれないロシア兵に怯えて十分な睡眠を取ることもできません。ビタミンを欠き、脚気による浮腫病(ふしゅびょう)になり、次々と亡くなっていきます。療養のため斜里を離れた者も、途中の網走や常呂で息絶えました。

 津軽藩はこの殉難を恥辱として一切記録に残しませんでしたが、生き残りの藩士、斎藤勝利が「松前詰合日記」を残しており、1954(昭和29)年に北海道大学教授の高倉新一郎氏が偶然それを発見。翻訳(難解な古文書であったため)の上で出版し、世に知られることになりました。

 さて、前出の「津軽藩士殉難の碑」には次のような碑文が添えられています。

「北方の風雲急を告げる文化四年(西暦1807年)当地方は津軽藩の警備地域となり、同年七月より翌文化五年六月まで津軽藩士百名が僻遠のこの地に駐留し蝦夷地の警備に任じた。北辺境の気候風土は耐え難く、加えて厳しい越冬期間中衣服食料は共に乏しく浮腫病のまんえんするところとなり、この病による陣没者相次ぎ、国許津軽に帰還した者僅か十七名に過ぎず、その多くは斜里場所創成期の礎石と化した。北海道開拓の先駆者としてわが町に果てた津軽藩士の霊魂を弔(とむら)い、ゆかりの丘に慰霊の碑を建立する」

 同じく津軽藩士が警備に当たった宗谷でも40人が亡くなっています。現稚内市の宗谷公園には「津軽藩詰合の記念碑」が残されています。

「文化四年(1807)、幕命による蝦夷地越冬警備のさい、厳冬下で次々と浮腫病に斃れていった数多くの津軽藩兵を悼(いた)むと共に、その後、安政二年(1855)再び蝦夷地軽微に赴いた藩兵たちには、浮腫病の薬用として『和蘭コーヒー豆』が配給されていた事実を記念するためのものである」

 この当時、コーヒーは浮腫病の妙薬とされていました。そのため、この碑もコーヒー豆の形状をしています。飲まずに亡くなられた方も、大事に飲んで病気にならなかった方も、同じ苦労をされたことでしょう。後世の我々にその苦労を伝えるものです。

 さて、北海道には日本各地から移住者が来ていますが、東北地方と北陸地方で全体の7割を占めています。都府県別でみると青森県が第1位で、統計の残る1882(明治15)年から1935(昭和10)年までに6万8855戸、約30万人もの青森県人が入植しています。

 旧会津藩から多くの藩士が青森県、下北半島に転じて斗南藩となりましたが、明治3年には斗南藩士が後志国・瀬棚郡、胆振国・山越郡に入植しており、青森県移住者として登録されています。

 明治に入り、蝦夷地の開拓と北方防衛は重要案件となり、新政府は制度を設けて諸藩に北海道開拓を促しました。これが「分領支配」です。旧藩では28藩が応じましたが、明治2年9月には弘前藩が後志国島牧郡(現後志管内島牧村・寿都町)に藩士を移住させています。

 中でも釧路(久寿里)開拓の祖と言われているのが佐野孫右衛門です。4代目孫右衛門は、今まで出稼ぎ方式だった漁業労働者を定住型に変革し、南部(青森)から5戸15人を久寿里(釧路)に呼び、この地区を永住の地としました。この地区で初めての定住型漁業です。経営は軌道に乗り、明治3年、青森県人を中心として174戸637人が釧路・昆布森・仙鳳趾(せんぽうし)に入植し、この地域の漁業発展の基礎を築きました。

 1893(明治26)年に徳島県の移住団体を中心に開拓が始められた、空知管内雨竜町の蜂須賀農場にも多くの青森県人が参加しています。また1904(明治37)年には青森県南部の移住団体が現後志管内真狩村付近に移住し、この地に「南部」の地名をつけています。

 同年には青森県津軽の団体も宗谷管内礼文町にニシン漁民として移住し、礼文町香深村に津軽町を名付けています。

 津軽海峡を隔て、北海道と青森県は隣同士であるためか、青森から北海道へは個人移住が多く、まとまった資料が得られなかったのが残念です。