社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (22) ―甲斐国(山梨県)の北海道開拓

 武田晴信(謙信)が権勢を誇った甲斐国。山梨県は日本の中部地方に位置し、南に富士山、西に南アルプス、北に八が岳、東に奥秩父山地など、面積の8割を山岳地が占める内陸県です。山岳地帯の間を流れる川は、大雨が降ると「暴れ川」となって流域に洪水被害をもたらした歴史があります。

 明治時代には、元年から43年までに11度の水害が発生したことが記録されており、1907(明治40)年8月には大型台風が上陸し、利根川・多摩川など各地で堤防が決壊。中でも富士川の被害が甚大で山梨県を中心に大きな被害が発生し、未曽有の災害となりました。

 とくに日川(ひかわ:甲州市を主に流れる笛吹川の支流)、重川(おもがわ:富士川水系笛吹川支流)、御手洗川(みたらしがわ:南アルプス市を流れる富士川水系滝沢川支流)を台風が直撃した際は、5日間で年間降水量の半分以上が降る豪雨となり、家屋の全壊・流出5767戸、亡くなった住民は233人に及んでいます。

 この災害を契機として、北都留郡(山梨県西部、小菅村・丹波山村)、東山梨郡(現・山梨市・甲州市)、東八代郡(現・笛吹市)などの被災民3000人が北海道南部、羊蹄山の南麓から東麓に集団移住しました。

 噴火湾に面し、イチゴの産地として知られ、またホタテの養殖が盛んな豊浦町。豊浦町(村)の旧地名は弁辺(べんべ)で、1932(昭和7)年に豊浦村、そして1947(昭和22)年に豊浦町となりました。今日では町内を流れるベンベ川にその名が残されています。

 同町の記録によると、弁辺村は1906(明治39)年に上昆布原野150万坪を植民区域として移住受け入れを準備。その2年後に山梨県から93戸、翌年に106戸が入植しました。移住者たち(下山梨団体)はこの地を山梨と名付け開拓作業に従事。翌1910(明治43)年、高台に心のよりどころとして「山梨神社」を建立。子弟の教育のため新山梨特別教授場として「新山梨小学校」を開校させています。当校は現在の豊浦小学校に発展しています。

 羊蹄山の吹き出し水で有名な京極。京極はかつて倶知安町に属していましたが、この町には甲斐、松川と名付けられた地名があります。いずれも先述の水害により農地を失った山梨県からの方々が移住された場所です。

 京極町甲斐(当時はペーペナイ原野)には1908(明治41)年に「上山梨団体」116戸が入植、また近くの倶知安町山梨(当時はヌプリカンベツ)に155戸が入植しています。

 当時は笹薮に蔽われた原野で開拓は困難を極めましたが、移住者はソバ、イナキビ、ササゲ、ナタネなどを耕作し、また養蚕も行っていたそうです。

 1910(明治43)年には上山梨教育所を開設しましたが、あまりにも厳しい開拓業務で移住者の大部分が離農し、教育所も1920(大正9)年に廃止せざるを得ませんでした。また同町松川には「中山梨団体」が同時期に移住しています。

 この地には今も「松川」「春日」「甲斐」「北岡」と、山梨県の地名が残っています。「山梨県の移住したる人々の拓きたる地なれば永久に之を記念とす」とした後世の人達の移住者に対する思いで残されたのでしょう。

 また「日本で最も美しい村連合」に加盟しているのが余市郡赤井川村。この地にも災害後の明治41年に「山梨団体」が入植し、この地を「山梨」と名付けました。「甲斐の国」に対する地元愛と望郷の思いで、移住先に「山梨」「甲斐」「松川」の名をつけたのでしょう。

 山梨県からの屯田兵移住は31戸162人で、移住地は何れも上川地方の士別(7戸)、北剣淵(12戸)、南剣淵(12戸)に入営。士別も剣淵も屯田兵制度としては最後の入植地でした。

 両地とも現在は上川の穀倉地帯として豊かな農地が広がっていますが、入植時は泥炭層の湿地帯で飲料水にも事欠いた状態だったそうです。60人全員が鉄道で和寒まで行き、そこからは道なき道をそれぞれの兵村に向かいました。彼らのたゆまぬ努力で鉄道の延伸、停車場・排水溝の設営が行われ、現在の上川地区インフラの基盤が築かれました。

 なお、北海道勇払郡早来町出身の参院議員で現在東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の橋本聖子さんは、1988年に山梨県県民栄誉賞を受賞しています。地元富士急行のスケート部出身で、オリンピックで銅メダルを取っています。「広く県民に敬愛され、社会に明るい希望を与え、山梨県の名を高めたもの」が受賞理由で、北海道と山梨県の懸け橋ともいえましょう。

 本ブログを執筆しているのが令和2年7月15日。九州から中部・北陸に甚大な被害をもたらしているのが「令和2年7月豪雨」。7月3日に熊本県を襲ってから既に10日以上も経っていますが、まだ終息に至っていません。

 また、お隣の中国では7月13日に豪雨があり3700万人が被災したとのニュースも入っています。地球温暖化の勢いが止まらず、今後毎年発生しないとも限りません。明治以降の北海道の開拓は、各地で発生した災害による被災者の移住によって進められた面もあります。移住者たちは多くの困難を克服して今日の北海道を築かれました。自然災害が比較的少ないと言われる北海道は、今後被災された方々に、土地・住宅の提供、就職の斡旋、教育など各種生活上の支援を行い、隣人として迎え入れる暖かな気持ちを持たなければなりませんでしょう。