社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (18) ―下野国(栃木県)の北海道開拓

 オホーツク海に面するサロマ湖、その南に広がる常呂郡佐呂間町。この地に「開基五十周年記念碑」が立っています。一体、何の五十周年なのでしょうか。碑には以下のように(概要)が記されています。

「栃木部落は明治四十四年栃木県下都賀郡(しもつがぐん)南部・八ヶ村の六十六戸が移住開拓したるをもって嚆矢(こうし)となる。移住の動機は足尾銅山の採鉱精錬の開始されるにあたり鉱毒を渡良瀬川(わたらせがわ)に排流して顧みず、そのため洪水ごとに鉱毒は耕地に氾濫して農作物・魚族を枯死滅亡せしめ農民生活は疲弊窮乏し、加えるに明治四十三年関東地方を襲える豪雨は渡良瀬川に未曽有の大洪水を斎(もたら)し、沿岸の惨状言語に絶し民は悉く再起不能の被害被り……」

「日本における公害の原点」と言われているのが「足尾鉱毒事件」です。栃木県日光市を流れる渡良瀬川の上流にある足尾銅山は、1887(明治20)年以降、採掘場から出る廃液を100キロに渡る下流域に流出させ続け、深刻な水質や土壌の汚染、山林の荒廃、そして漁獲量の減少を引き起こしました。

 明治政府はこの事件を隠蔽した上で、渡良瀬川の下流に洪水の吸収を目的とする遊水地を造成し、その予定地にあたった旧・谷中村の住民を強制移住させ、村は廃村となりました。ですが、移住時の用地買収については、鉱毒で作物が育たなくなったことから、近隣町村における土地評価額の5分の1程度とタダ同然の補償しかおこないませんでした。

 さらに1910(明治43)年には、関東地区を襲った豪雨で渡良瀬川が氾濫し、この流域の農民に甚大な被害を与えました。鉱毒に水害、強制移住と、生活のすべを失った住民たちに対し、栃木県庁は北海道移住を持ちかけます。その結果、谷中村や周辺の町村から66戸210人が応じました。

 1911(明治44)年4月、栃木県係官・係員、赤十字看護婦に引率され、移住団は小山駅から特別列車に乗り、北海道常呂郡サロマベツ原野に向け出発。一行は函館、札幌、陸別を経て野付牛(現・北見市)の民家に分宿しました。

 翌日、馬車に老人や子ども、病人を乗せて積雪の中、峠を越えてサロマベツ武士(ブシュ)に到着。移住者が入植したのはサロマ湖から16キロの奥深いところ。県庁の吏員から「南向きで肥沃な大地」と聞いていたものが、実際は山々に囲まれた北斜面に位置し、平地が少なく標高も高い、雪深い大地でした。

 移住者たちは集落を「栃木」と名付け、鍬や鎌を手に、人力で開墾を進めていきました。しかし、慣れない土地での厳しい開拓の結果、1年後には20戸がこの地を去ります。

 2年後の1913(大正2)年、栃木から再度の移住民を募り、32戸が第二次入植。計78戸となりましたが、そこから15年経たないうちに6割強が引き上げており、この地の開墾がいかに厳しかったかが窺い知れます。

 第二次入植の同年、宇都宮市の二荒山(ふたあらやま)神社から祭神を分祀し、栃木神社の社殿を建て、また小学校を開設して移住民の心の拠り所としました。

 栃木神社のすぐ近くには、推定千年と言われる一対のオンコの巨木があります。説明板には「不思議にも男の老木から若木が伸び老若一体となる。これぞ開運隆盛の兆しと部落民一同神木と称し敬神・敬慕するにいたる。この思想を教育の基盤とし社殿兼用の児童教授所を建て、大正二年六月一日に開校した」とあります。

 時は過ぎて1960(昭和35)年4月、栃木集落で「開基五十周年記念式典」がおこなわれましたが、栃木集落の戸数は110戸で、そのうち栃木県出身者は18戸だったそうです。入植者の多くは帰郷を余儀なくされたのでしょう。

 冒頭の記念碑はこの時建立されたもので、碑文の後半には「昼なお暗き原始林に開拓の斧鍬を入れ、又他県移住者と共にあらゆる困苦欠乏に耐え、今日の発展を見るに至ったのである」と記されています。

 一方、知床半島の付け根に位置する斜里町。この蝦夷地の歴史においては、飛騨屋久兵衛が請負場所をこの地に設け、アイヌの人たちを酷使したことで「クナシリ・メナシの戦い」に繋がった場所です。

 また最上徳内、近藤重蔵、高田屋嘉兵衛、村山伝兵衛、松浦武四郎など蝦夷地開拓先覚者達の足跡を遺した地としても記録されています。斜里から斜里岳に向かう途中に越川という地があり、朝鮮人たちの苛酷な労働によって建造されたアーチ橋があります。

 鉄道は開通することなくコンクリートのみの越川橋梁として遺されており、ひなびた越川温泉がある地です。この地には、大正2年に島津農場が、そして翌3年には元木農場が開設され、各地からの入植者が増加していきます。

 同年に斜里村となり、栃木県からも農業団体が入植、越川小学校が開校されます。栃木県からの移住者は困難極まる開墾作業を乗り越え、道東地区に新たな北海道の歴史を造り上げていったのです。

 栃木県から屯田兵として入営したのは7戸約45人で、埼玉・千葉・東京・神奈川・大阪とともに一桁の戸数で、東北や九州・四国の各県と大きく異なっています。東当麻(2戸)、北剣淵(3戸)、上野付牛(北見1戸)、中野付牛(1戸)の各兵村に入営しました。

 1882(明治15)年から1935(昭和10)年の間に栃木県から北海道に移住してきたた戸数は5,473戸(都府県で25位)で、家族を含めると約2万人に上っています。足尾銅山の鉱毒、渡良瀬川の洪水をきっかけに、多くの栃木県人もまた、北海道に生活の場を築いてきたのです。