北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (25) ―江戸(東京都)の北海道開拓 中編
1789(寛政元)年に「クナシリ・メナシの戦い」が勃発した際、幕府はその背後にあるのがロシアの南下政策や無策な松前藩の悪政によるものと疑い、1798(寛政10)年、200人近い幕府役人を調査のため蝦夷地に派遣しました。
その調査隊の先発隊長となったのが近藤重蔵です。1771(明和8)年に身分の低い貧しい武士の子として江戸で生まれた近藤は、28歳の若さで蝦夷地調査隊先発隊長に登用されます。
近藤はこの調査で、高波荒れる中エトロフ島へ到達し「大日本恵登呂府」と記した標柱を建立。その帰路に日高地方を視察し、広尾でアイヌの人たちが通行に難渋していることを知って、アイヌ人68人とともに蝦夷地における最初の山道を開削しています。
翌年、日高地方の様似でアイヌの人たちが義経伝説を信じていたことから、義経神社を祀り、金色の義経像を寄贈しています。また、幕府に対しては「蝦夷地警備に関する意見書」を提出。この中で「北方統括の適地は当別方面、札幌付近がよく、港ならば小樽である」と記しました。北海道と命名される60年前に、今日の北海道運営の姿を見通す力を近藤は持っていたのです。
1853(嘉永6)年、ペリーが浦賀に、ロシアの使節プチャーキンが長崎にそれぞれ来航。日本に開港を求めます。幕府は堀織部正(ほり・おりべのしょう)に現地調査を下命。堀は箱館から宗谷、樺太のクシュンコタンを調査した結果、ロシアなど外敵に対し松前藩の警備体制は脆弱であることを幕府に報告しました。
その結果、松前藩領を除くすべての蝦夷地を幕府の直轄地に戻した上で、1854(安政元)年に箱館奉行所を設置。堀を箱館奉行に任じます。堀織部正は名を利煕(としひろ)といい、1818(文政元)年に幕府大目付の子として江戸で生まれました。
箱館奉行に登用されてからの堀の采配は見事なものでした。まず外敵からの防御のため、大砲15門を擁する「弁天砲台」を箱館湾突端に、西洋式要塞「五稜郭」を郊外に建築。設計は当代一の知識人・武田斐三郎(あやさぶろう)、施工は越後出身の松川弁之助を当てました。また1856(安政3)年には「諸術調所(しょじゅつしらべしょ)も開設し、日本各地から大志を抱いた若者を集め教育を施しています。
他方、1854(嘉永7)年にペリーが箱館に来航し、箱館が開港。各国の領事館が建てられて東北諸藩の陣屋が連なり、市街には商店が軒を連ねて瞬く間に盛況に。堀はこれを見逃さず産物会所の設立、鉱山の開発、養蚕・陶器・紙の製造などを推奨し、産業は大いに栄えるに至りました。
堀は近藤の指摘した石狩開拓にも力を入れ、石狩役所を開設。荒井金助を長官に当てました。荒井は1809(文化6)年に幕臣の子として江戸に生まれ、父の跡を継いで利根川筋の定普請役を担当。若くして京都に上り、朝廷にも勤めた人物です。
荒井は1857(安政4)年に石狩役所長官として当地へ赴くとアイヌの人たちを酷使している場所請負人制度をあらためて直捌き(じかさばき)に。漁場を開放したことで出稼ぎ・永住人が増え、イシカリは活況を呈しました。
また、篠路が肥沃な地であることを見て、新井村(後に荒井村)を開発。自費で住民を募集し、米作・野菜栽培を奨励しました。さらにサッポロ(札幌)からゼニバコ(銭函)に至る「札幌越新道」開削にも大きく貢献しています。
歴史家の高倉新一郎は「今日の札幌は金助の施策によって基礎が開かれたと言って決して言い過ぎではありません」と評価しています。
さて、小樽商科大学元学長の加茂儀一が「単なる軍人や政治家ではなく、優れた科学者、技術者でもあり、広い範囲における高い教養の持ち主」と評したのが、榎本武揚(たけあき)です。
榎本は1836(天保7)年に江戸下谷柳川で生まれ、幼名は釜次郎と称しました。堀織部正の蝦夷地検分に19才で同行し「長崎海軍伝習所」二期生として最先端の学問・語学を研修。1862(文久元)年、発注した幕府旗艦「開陽」を受け取るためオランダに渡航し、当地でさらなる研鑽を積んでいます。
1868(慶応4)年、大政奉還がなされ戊辰戦争が勃発すると、榎本は薩長に徹底抗戦すべきとして「開陽」ほか7隻の幕府軍艦で2000人の兵士とともに品川を出航、蝦夷地へ。途中、仙台で会津藩士や新選組など1000人を加えて箱館で「蝦夷共和国」を設立。選挙によって総裁に就きます。
1869(明治2)年、雪解けを待って新政府軍が旧幕府軍に総攻撃を開始すると、程なく終戦。榎本以下旧幕府軍の主要幹部は東京に送致されました。榎本はそこで2年間の獄中生活を過ごしますが、新政府軍参謀で明治政府の主要人物だった黒田清隆の助命により北海道開拓使に勤めることに。貴重な燃料資源である空知炭鉱を発見するなど、北海道開拓に大いに貢献しました。
札幌市北区にある札幌北高等学校は道内外で活躍する経済人を多数輩出していますが、その前身は庁立札幌高等女学校でした。ここで女学生の薫陶に務めたのが「おっかない安芸先生」として親しまれた安芸佐代(あき・さよ)。安芸は1876(明治9)年東京本所育ち。余生は茶道に打ち込み、外国人を自宅の無々庵(むむあん)に招き日本の伝統文化を紹介するなどし、1961(昭和38)年、84歳で生涯を終えました。
札幌・大通公園9丁目に「小さき者へ」と題した有島武郎の文学碑が建っています。有島は1879(明治11)年、東京市小石川(現・東京都文京区)に生まれ、農学者を志し札幌農学校に進学。そこでキリスト教の洗礼を受けます。
文学碑には「小さき者よ 不幸なそして同時に幸福なおまえたちの父と母の祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ 前途は遠いそして暗い しかしおそれてはならぬ おそれない者の前に道は開ける 行け 勇んで 小さき者よ」と刻まれています。