北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (21) ―美濃国(岐阜県)の北海道開拓
1891(明治24)年、美濃(岐阜県)、尾張(愛知県)一帯に日本史上最大の内陸型地震が発生しました。濃尾地震(美濃・尾張地震)と呼ばれるこの地震は、推定でマグニチュード8.0、震度7と記録される大規模なもの。死者7273人、負傷者1万7175人、全壊家屋は14万2177戸に及び、岐阜県はその約7割の人的災害を被った最大の被災地となりました。
政府は「市街の旧観に服することを以て難しとせば(復旧が困難とすると)、速やかに特別保護を与えて北海道に移住せしめ、草野を開いて岐阜村を設けしむるにしらず(北海道に移住させその地を開拓し、そこに新たに岐阜村を造るべき)」と、北海道移住支援の論議がなされました。
北海道移住を決意したのは、岐阜県武儀郡(むぎぐん)の「武儀団体」、本巣郡(もとすぐん)穂積村別府の「別府団体」、安八郡(あんぱちぐん)三城村加賀野の「後藤光太郎率いる団体」、揖斐郡(いびぐん)坂内村の「岐阜団体」、同じく揖斐郡稲富村の「岐阜集団」、そして本巣郡・揖斐郡の「美濃開墾合資会社」の6団体です。
「武儀団体」の移住について、十勝管内音更町の史跡文化財マップで、以下のように表記しています。「1897(明治30)年4月8日、岐阜県武儀郡中有知村(なかうちむら)は肥沃な土地でしたが、大水害、集中豪雨、加えて濃尾地震(明治24年)の惨状下にあり、 団長、中田宮五郎は2班に分かれてオベリベリ(帯広)、そして中士幌に入地し、 5年間で27戸が中士幌に入植しました。
彼は、オベリベリ滞在中、団員の不満を説得し、未開地の困難な開拓に団結して取り組むことを訴え。また、堀勝十郎は1898(明治31)年、自宅で児童7人による「寺子屋式教授場」を開きました(音更で初めての 学校)。その後、説教所・神社を設置、青年たちの文化活動等が盛んに行われていました」
また、国鉄士幌線武儀駅跡の史跡には「武儀駅は駒場駅から2km。1956(昭和31)年12月に設置された無人駅で、武儀団体が入植した地域の住民陳情により設置されました。武儀から駒場駅に行くには線路と 鉄橋を渡って往来していて、大変危険なことから新駅設置の要望となり、駅設置時には約80万円を住民が拠出しました。住民の熱意に応えた設置でした。」とあり、移住民が一致団結して開拓に勤しんでいる様子が窺われます。
「岐阜集団」が入植したオホーツク管内常呂町岐阜地区には、集落センターの隅に、「百年記念碑」「尋常小学校の碑」「三十年記念碑」が並んで建っています。
岐阜地区は1897(明治30)年、岩見沢に移住していた岐阜県出身の林喜太松氏が常呂原野の土地貸与許可を受け、岐阜県揖斐郡、本巣郡の両郡からの移住者あわせて21戸が家族とともに入地したことに始まります。
岐阜開基百年記念碑「開基百年記念史闘墾」には「ふるさとを愛し、いこいの郷として夢をもって未来へ限りなく飛躍する」ことを願い、石碑の題字を「愛郷夢限」としたと記されています。
「別府団体(12戸62人)」は1898(明治31)年、十勝ウエカリップ原野の一部である帯広原野に入植。この地を故郷に因んで別府と名付けしました。
帯広市の市街地に近く、近郊農業として、またプラウの使用による大規模農法の採用などにより開拓は飛躍的に進展していきました。1902(明治35)年、上帯広村家庭教育所(後、帯広市立別府小学校)が設置され、1906(明治39)年には本願寺説教所の設置が許可され、地域一丸となった取り組みは、今の農業王国十勝の礎となっています。
「美濃開墾合資会社」一行43戸は1898(明治31)年、河東郡士幌町中士幌(武儀と士幌の間)に入植し、大地の開拓を始めました。その後、開拓団は音更町沿岸にも開拓地を拡大し、士幌発展の基盤を築いています。
揖斐郡坂内村出身者による「岐阜団体」は1897(明治30)年、帯広市川西に移住しています。川西は「長いも」などの特産品を生産し、十勝農業の中核になっていますが、岐阜県各務原市(かがみはらし)に「帯広川西農協岐阜事務所」を持っています。岐阜県と帯広市の力強い関係と「岐阜団体」移住者が川西地区の農業振興にいかに貢献してきたかが窺われます。
屯田兵として北海道に移住した岐阜県人は165戸約1000人(堀口敬)で、初期の上旭川が1892(明治25)年に8戸、下旭川が同3戸、東当麻が1893(明治26)年の1戸を除くと、ほとんどが1896(明治29)年以降で、濃尾地震による各団体の北海道移住と同じ時期になっています。
同年に空知の納内(9戸)、東秩父(9戸)、西秩父(9戸)、翌1897(明治30)年にオホーツクの北湧別(17戸)、南湧別(19戸)、北見の上野付牛(17戸)、1898(明治31)年に下野付牛(22戸)、1899(明治32)年に上川の士別(5戸)、北剣淵(10戸)、南剣淵(15戸)、北見の中野付牛(22戸)です。濃尾地震や長良川の氾濫で田畑を失い、生活の基盤を破壊された多くの農民が屯田兵として北海道に入植したのでしょう。